竹の塚ルーテル教会

Takenotsuka Lutheran Church


2014年9月の礼拝予定

9月の礼拝予定をお送りします。

14日は、関東地区一致祈祷日です。また交換説教日として、梁 熙梅師が説教奉仕をなさいます。

聖餐式は7日と21日です。

秋の訪れとともに、本教会でもさまざまな行事が行われます。

教会バザー、ファミリーコンサート、イブ礼拝など、随時お知らせしますので、お見逃しなく!

教会はどなたに対しても開かれています。

初めての方は、竹の塚 教会案内パンフレット もご覧ください。

竹の塚礼拝予定2014年9月B_04

 

 

 


復活祭(イースター)説教 2012年4月8日

「復活のキリストと共に」

(マルコ福音書16章1~8節より)

江本真理牧師

+私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。

イースターおめでとうございます。このイースターの朝に私たちが聞くべきメッセージは、「あの方は復活なさって、ここにはおられない」(6節)という決定的な知らせです。四つの福音書が一致して記録していることは、主イエスを納めた墓に主イエスの体は見当たらず、墓は空であったという事実です。

この事実に対して、マタイ福音書の記すところによれば、当時の祭司長や長老たちは墓の番兵たちを多額の金で買収し、イエスの死体は「弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った」と言わせたとあります。そして、「この話は、今日に至るまでユダヤ人の間に広まっている」と記されています(マタイ28章11~15)。

主イエスが復活されたその日以後、「あの方は復活なさって、ここにはおられない」というよき知らせと、イエスの死体は弟子たちが夜中に来て盗んで行ったのであって、イエスは復活したのではない、という偽りのうわさとが告げられていきました。しかし、この「イエスの死体は弟子たちが夜中に来て盗んだ」という偽りのうわさには歴史を動かすことはできませんでした。逆にこの2000年間、世界の各地に誕生していったキリスト教会の存在は、主イエスを葬った墓は空っぽで、主イエスの復活が事実であったということを実証しているのです。

この二千年間、教会が、キリスト者が信じ、そこに生き、宣べ伝え続けてきた主イエス・キリストの復活という出来事。パウロはコリントの信徒への手紙1 15章の中でこのように言っています。「キリストが復活しなかったのなら、私たちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です」(14節)。「キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります」(17節)。(キリストが復活しなかったのなら)「この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です」(19節)。「しかし、実際、キリストは死者の中から復活」されたのだとパウロは力強く語ります。だからこそ私たちはこの復活されたキリストを信じる信仰に生きるのであるし、その信仰の歩みは決してむなしいものではなく、むしろただ復活のキリストにのみ望みをかけ、この復活のキリストを宣教していく、宣べ伝えていくのだといいます。

このキリストの復活という、私たちの信仰の原点、信仰生活の礎となる出来事を、私たちはここでいま一度しっかりと聞いて、受け止めたいと思います。

私たちのこの世の営み、それはある意味、墓に向かって歩んでいく営みだと言えます。私たちはこの世に生を受けた瞬間から、実は墓に向かって、つまり死に向かって歩み始めています。私たちのこの世の歩みは例外なく、この墓、つまり死に向かう歩みなのです。しかし、このキリストの復活という出来事は、私たちの人生はそのようにただ墓へと向かうだけのものなのか、否、そうではなく、その墓を突き破り、死を越えて前に進むことができるものだということを告げているのです。

安息日が明けた週の初めの日の朝早く、主イエスのご遺体に葬りのための油を塗るために重い足取りで墓へと向かっていたマグダラのマリアたち(婦人たち)には、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるだろうか」という気がかりがありました。墓の入り口は大きな石でふさがれるという形になっており、これは一旦ふさがれると、少々の人の力では開けることはできないものでした。まして3人の婦人でどうなるものではありません。だれがあの墓の入り口から石を転がしてくれるだろうか・・・

しかし、足元を見ながら暗い思いで歩いていた彼女たちが、墓の近くに来て目を上げて見ると、非常に大きかったその石は既にわきへ転がしてありました。彼女たちが恐る恐る墓の中に入ってみると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えました。そしてひどく驚く彼女たちにその若者は、「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない」と告げたというのです。

この経過の中での彼女たちの思いを考えてみますと、最初とりあえず主イエスの墓へと向かった彼女たちですが、その彼女たちの行く手には自分たちではどうにもならない大きな墓石が立ちはだかっているはずでした。仮に誰かが手伝ってその墓石を転がしてくれたとして、主イエスの体に香油を塗ってさしあげることができたとしても、もう既に死んでしまった人は帰ってこないはずでした。彼女たちの行く手には、自分たちにはどうにもならない、どうにもできない、そして二度と取り返しのつかない事柄が立ちはだかっていたのです。しかしそのような全く八方ふさがりとも言える状況の中で、墓石は転がされ、さらに空っぽの墓の中で、「あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない」という驚くべき知らせを聞いたのです。これはにわかには信じられない事柄です。実際このときの彼女たちの様子について、聖書は「婦人たちは、墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」と記しています。これは実に生き生きとした描写です。彼女たちにしてみれば、もともと墓の入口をふさぐ大きな石が転がされている、それだけでも信じがたい驚くべき出来事でした。しかも、墓の中には白い衣を着た若者がいて、死んだ主イエスは復活されてここにはいないと告げられる、こういうことを聞かされて、驚きと恐れを抱かない人はいないでしょう。

しかし、ここにこそ、聖書が語ってやまない復活のメッセージがあることを、この朝、私たちはしっかりと聞き取らなければなりません。「あの方は復活なさって、ここにはおられない」。このメッセージは、死の壁を打ち破り、死の彼方へと進まれたキリストを私たちに告げています。それは、キリストが死をもって死を滅ぼし、復活という新しい命、永遠の命への道を開いてくださったことを意味します。

先ほど、このキリストの復活という出来事は、私たちの人生というものがただ墓へと向かうだけのものなのではなく、その墓を突き破り、死を越えて前に進むことができるものだということを告げていると申し上げました。私たちの人生には、この世における最期、墓に至るまでにも、まるで墓の中へと押し込められるようなどうにもならない状況がふりかかってきます。もうどうにもならない、もうこれ以上先へは進めない、そういう絶望の中へと落とされていくことがあるのです。しかし聖書は告げるのです。あなたが今置かれている状況がすべてではない。あなたのその苦しみは苦しみのままで終わらない。あなたのその悲しみは悲しみのままで終わらない。あなたのその絶望は絶望のままで終わらない。その苦しむあなたと共に、その悲しむあなたと共に、その絶望するあなたと共にキリストがいてくださる。そしてそのあなたの苦しみ、悲しみ、絶望の中に共にいてくださるキリストは、復活のキリストであり、既にあなたの苦しみの先にある慰めを、悲しみの先にある喜びを、絶望の先にある希望を獲得してくださっている方である。墓を打ち破り、死を越えて、絶望の彼方へとあなたに先立って行かれる方である。だからこそ、パウロが語るように、私たちはこの復活されたキリストを信じる信仰に生きるのであるし、その信仰の歩みは決してむなしいものではなく、むしろただ復活のキリストにのみ望みをかけ、この復活のキリストを宣べ伝えていく、その歩みに生きる者でありたいと願います。

キリスト者の生涯は、復活されたキリストを私の主と信じて歩むこと、どこまでも、どこまでも、この復活されたキリストと共に歩み続けることです。このあと、一人の方がイエス・キリストを主と告白して、洗礼にあずかり、キリストの体である教会に結ばれます。それは死をも越えて先立ち行かれる復活のキリストと共に、墓に向かう人生から、墓を突き破ってその先にある復活の希望、永遠の命に生きる歩みであるのです。私たちは共々に、与えられた信仰を大切にして、生涯かけて十字架の主、復活の主に共に従ってまいりましょう。

どうか望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みに溢れさせてくださるように。アーメン


震災に寄せて

江本真理牧師より

◆2011年3月11日午後2時46分という時は、私たちにとって忘れることのできない時となりました。東北関東大震災において被災された地域の皆さまに、謹んでお見舞い申し上げますとともに、主の憐れみのうちに、被災地の一日も早い復興を心よりお祈り申し上げます。私たちの想像をはるかに超える甚大な被害が明らかとなっていく中、このような大震災が現に私たちの日常に起こったことをどのように受け止めていったらいいのか、正直戸惑いを隠せない思いです。と同時に、それでも、今この状況の中にあって、私たちはなお命を与えられ生かされているいうこともまた事実なのだと思わされています。

私たちは、このときに、自分が命を与えられ生かされていることへの感謝と、また命を与えられ生かされていることの責任(使命)を覚える必要があるのではないでしょうか。

この震災の最中に開幕することになった春のセンバツ高校野球選手権大会の開会式での選手宣誓の様子をニュースで見ました。その言葉がとても印象深く私の心に残りました。

 

「宣誓。

私たちは16年前、阪神・淡路大震災の年に生まれました。今、東日本大震災で、多くの尊い命が奪われ、私たちの心は悲しみでいっぱいです。

被災地では、全ての方々が一丸となり、仲間とともに頑張っておられます。人は仲間に支えられることで、大きな困難を乗り越えることができると信じています。

私たちに、今、できること。それはこの大会を精いっぱい元気を出して戦うことです。

「がんばろう!日本」。生かされている命に感謝し、全身全霊で、正々堂々とプレーすることを誓います。

平成23年3月23日  創志学園高等学校野球部主将 野山慎介」

 

「私たちに、今、できること」、「生かされている命に感謝し、全身全霊で・・・」とあるように、私たちが今ここに命を与えられ生かされているということには、大きな意味があり、大事な使命が与えられていることなのだと思います。

「なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです」(エフェソ2:10)。

ここから人々が立ち上がり、震災からの復興へと歩み出していくために、主の憐れみと導きとが豊かにあることを切に祈りつつ、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」

とのみことばを与えられた私たち竹の塚教会、私たち一人ひとりも、その歩みを共に担っていくものでありたいと願います。“キリエ・エレイソン(主よ、憐れみたまえ)”。

 

◆日本ルーテル教団では「東北関東大震災 被災者支援献金」を募っています(竹の塚教会ではこの支援献金の募金箱を設置しています)。詳しくは教団のホームページ〔http://www.jlc.or.jp/〕等をご覧ください。また日本福音ルーテル教会の「ルーテルとなりびと」というブログ〔http://lutheran-tonaribito.blogspot.com/〕には、救援物資のお願いや被災地の状況、現地からのレポートなどが掲載されています。


2月の牧師室より 

牧師室より

◆最近あったことについての雑談ですが・・・先日、六ヶ月になる娘のパスポート申請に行ってきました。申請のためには顔写真が必要ですが、この写真を撮るのがなかなか難しい・・・なかなかじっとしていないですし、きちんと正面を向いた写真を撮るのは、想像以上に難しいのです。とはいえ、今はデジカメで撮った写真をすぐに確認できますし、何枚も撮った中から自由に選ぶこともでき、そのデータをコンピュータに取り込んで、写真のサイズも求められる規格に合わせて自由に調整できます。さらにそれを自分のプリンターできれいにプリントアウトできるのですから、考えてみれば本当に便利なことだなと改めて思わされました。

◆わたしが中学生のときにはじめてパスポートを申請したときのように、こういう証明写真を、写真屋さんで撮り直しのきかないフィルムで撮影してもらっていたとき―わずか二枚でも結構いい値段だったように記憶しているのですが―には、小さい赤ちゃんの証明写真などはどんなふうに撮っていたのだろうと本当に不思議に思います。その写真がよく撮れているかどうかの確認も現像してみなければわからなかったでしょうし・・・◆それはさておき、便利な技術の恩恵にあずかりつつも、撮った写真の中から納得のいく一枚(これは当然ながら本人の思いではなく、あくまで両親の納得のいく一枚ということなのですが・・・)を選ぶことは難しく、結局二種類の顔写真を用意して申請に行くことにしました。一つは、いわゆる証明写真の条件通り正面を向いて、目はきちんと開いていて、口も結んでいるものの、ちょっとムスっとした感じの表情になっているもの。もう一つは、正面からちょっとだけ横向きになっていて、口もちょっと開いているので、ふつうの証明写真の条件からするとアウトかなと思いつつも、表情としては笑顔で自然な感じもの。

◆実は今回のパスポート申請は、日本とアメリカの両方の国のものをそれぞれ申請したのですが、―これは国や文化の違いだなと思わされる点ですが―日本のパスポート申請では、予想通り、ちょっと横向き、ちょっと笑顔の写真はNGだったのに対し、その同じ写真が、アメリカ大使館では「これはとってもいい写真ですね!」と当たり前のように受理してもらえました。本人がもう少し大きくなってこの二つのパスポートを見たら、きっと日本のパスポートを見て「なんでこの写真なの?」と言われそうです・・・

◆ところで皆さんは、自分で納得のいく証明写真が撮れたと感じたことがありますか?

 

 

 


教会牧師から

2010年4月から
新しく竹の塚ルーテル教会の招聘牧師として着任した
江本真理牧師からのメッセージです。
 
 
 
4月18日に就任式が行われました。

今年は竹の塚ルーテル教会 創立50周年・会堂献堂25周年でもあります。
また、教会として新たな歩みが始まります。
 
よろしくお願いいたします。
 


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2010年 新任牧師よりご挨拶

 

どうぞよろしくお願いします!

竹の塚ルーテル教会牧師 江本真理

皆さま、こんにちは。4月より竹の塚ルーテル教会の牧師として着任いたしました江本真理と申します。私は2000年に日本ルーテル神学校を卒業し、最初の任地として杉並区にある杉並聖真ルーテル教会で10年間ご奉仕させていただいた後に、このたび竹の塚教会の招聘を受け、新たに皆さまと共に歩んでいくことになりました。

今回、竹の塚教会の招聘を受けるにあたって、皆さまには一年間待っていただく形になり、その間、専任の牧師がいない無牧の状態となった竹の塚教会の働きを、皆さまが祈りを合わせ、力を合わせて守ってきてくださったことに心から感謝いたします。また、その皆さまの熱い思いにこたえて、これから精いっぱい竹の塚教会のために仕えさせていただきたいと思っております。どうぞよろしくお願いいたします。

私にとって竹の塚教会は、もう12年前のことになりますが、私が神学生のときに、1年間教会実習と宣教研修をさせていただいた教会ですので、教会の皆さまにはいろいろとお世話になり、顔なじみの方も多く、私としては懐かしい場所に帰ってきたなあという思いでおります。12年前は一人の神学生としてお世話になりましたが、今回は牧師として、また妻と息子一人の三人家族として帰ってまいりました。妻のハイディーは、アメリカのウィスコンシン州出身の元VYMです。彼女も来日した当初、竹の塚教会近くのアパートに住み、竹の塚教会の交わりにも加えていただいていましたから、彼女にとっても竹の塚教会はいろいろとお世話になった懐かしい教会です。また息子の乃安(のあ)は現在二歳半になります。彼にとっては新しい環境になりますが、私たち以上に元気に楽しくこの状況に溶け込んでくれているようでうれしく思っています。

そして、7月にはもう一人家族が増える予定です。皆さまには、私たち家族のことを温かく迎えていただき感謝です。

私自身は、現在竹の塚教会での働きのほかに、教団での働きや、神学校での働きなども担っておりますが、いずれも神さまが私たちの救いのためにこの世にたててくださった教会と、その教会を通して神さまがなそうとされる宣教の御業に、この私を用いてくださる神さまの御心に信頼し、神さまのなさり方を信じて仕えていきたいという思いでおります。そして今、その信仰の歩みを共にしてくださる兄弟姉妹、友、仲間として、竹の塚教会の皆さまとの新たな出会いが与えられ、皆さまと共に新たな歩みを進めていくことができる幸いを感謝しております。

竹の塚教会の年題聖句として掲げられている「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ。キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」(Ⅰテサロニケ5章16~18節)とのみことば。このみことばを竹の塚の地においてこの世に証ししていく群れであるように、聖霊の力強い導きを祈り求めつつ、ともに歩んでまいりましょう。

どうぞよろしくお願いいたします!