竹の塚ルーテル教会

Takenotsuka Lutheran Church


聖霊降臨祭(ペンテコステ)説教 2013年5月19日  

「聖霊きたれり」(創世記11章1-9節、使徒言行録2章1-11節より) 
江本真理牧師

花畑ペンテコステ用

+私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。

今日は聖霊降臨祭(ペンテコステ)です。これは「教会の誕生日」とも言われ、キリスト教会にとっては、降誕祭(クリスマス)、復活祭(イースター)と並んでお祝いされる大切な日です。

聖霊降臨。それは、復活したイエスさまが天へと昇られてから十日たったときのことでした。エルサレムの町は、五旬祭(ペンテコステ)という祭りでにぎわっていました。エルサレムに住むユダヤ人ばかりでなく、いつもは外国(他の地域)に住んでいるユダヤ人たちも、エルサレムの神殿に集まってくるのです。一方、イエスさまの弟子たちは、みんなで集まって祈っていました。「わたしが天に帰ったら、あなたたちに聖霊を送ります」とおっしゃったイエスさまの約束を信じて、「どうぞ聖霊を送ってください」と熱心に祈っていたのです。

そのようにして弟子たちが一つになって集まっているところに、イエスさまの約束されていたことが起こりました。「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、”霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」(使徒2章2-4)。そして、その場に集まってきた人々は、弟子たちが外国の言葉で神さまのことを話しているのを聞いてびっくりしました。そこには、いろいろな国や地域からやってきた人がいたのですが、どの人も、自分が住んでいる国や地域(故郷)の言葉で弟子たちが「神の偉大な業を語っている」のを聞いたというのです。

このように、この五旬祭(ペンテコステ)の日、弟子たちの上に、約束の聖霊、イエスさまが約束してくださっていた神さまの霊(聖霊)が下り、その聖霊の力に満たされて、弟子たちはさまざまな国の言葉で神の偉大なみわざについて語り出した、つまり神さまの福音を宣べ伝え始めたのです。そしてここに、聖霊の働きにより神の福音を宣べ伝え、証ししていく弟子たちの群れ、教会が誕生したのです。聖霊きたれり!激しい風が吹いてくるような音が聞こえ、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、弟子たち一人ひとりの上にとどまった・・・不思議な現象ですけれど、直接目には見えない「聖霊」というものが送られる様子が、ここでは見聞きできる現象として起こっています。そして、この「激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ・・・炎のような舌が分かれ分かれにあらわれ、弟子たちの上にとどまった」というのは、神さまの息吹に満たされて、神さまの御手にとらえられた弟子たちの姿を示しています。

聖霊降臨(私たちに約束の聖霊が送られて、その聖霊の力に満たされる)というのは、言ってみれば、神さまが私たち一人ひとりに手を伸ばし、その手に私たちが直接とらえられるということ、その腕に抱かれるということです。聖霊というのは、私たちの弁護者、助け手、導き手と言われます。・・・子どもになすべきことを教え、正しく導いていこうとする親のような存在・・・。子どもが何もわかっていなくても、きちんとわかっている親に手を握られていれば大丈夫!子どもは親に手を握られていれば安心できます。子どものときに、親に手をつないでもらって安心した経験が皆さんにもないでしょうか。はっきり覚えていなくても、私たちにとってどこか懐かしい記憶、手を握られている安心感。あるいは、大好きな人、本当に信頼できる人に手を握ってもらったときに感じる安心、湧いてくる勇気、希望。私たちには、実際いろんな心配事、不安もあるでしょうけれども、どうか恐れないでください。今日この聖霊降臨日に、安心や安らぎ、希望、それらをもう一度取り戻しましょう。私たちの本当の助け手、導き手にしっかりととらえられているなら、私たちは何も恐れなくていいのです。

聖霊降臨というのは、何も特別な人たちにだけ起こったこと、起こることではありません。私たち一人ひとりに起こることです。すべての人に神さまは手をのばして私たちをとらえてくださる。私たちの手を握ってくださる。それが神さまの御心だからです。だから私たちは何も恐れなくてよい、安心してよい。

そして、私たちがそのようにしっかりと神さまに手を握られているのだとすれば、片方の手が神さまにしっかりと握られているのであれば、空いているもう片方の手で、すごくいいことがいっぱいできる。あらゆる壁を越え、どんな障害も憎しみも越えて握手することができる。それこそ、神の手を必要としている人を助けるために手を伸ばすことができる・・・

聖霊降臨というのは、教会の誕生日だと先ほど言いました。弟子たちの集いに聖霊がやどって教会が生まれた。それは、弟子たちの手をしっかりと神さまの手が捕まえてくださったときに、弟子たちはもう片方の手でいくらでも神さまの働きをすることができるようになったということでしょう。これが教会の出発点。そして、その働きの第一として、今日ご一緒に聞いている、あらゆる国の人々にその人々の言葉で福音が伝えられていくという出来事があります。私たちの間に存在するさまざまな壁や限界(文化や言葉の違い)が、聖霊の働きによって越えられていくのです。

さて、今日の旧約聖書の日課として読まれた創世記11章の「バベルの塔」の出来事にも触れたいと思います。

このバベルの塔の物語の背景にある神さまの意図は、人々を散らすことです。それは神さまの祝福の広がりを意味します。神さまの祝福が全地を満たすこと、それが神さまの御心なのです。しかし、ここには散らされまいと結束する人間たちの姿が描かれます。彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言います。彼らは散らされまいと結束していくのですが、その結束は神さまを締め出します。神さまを締め出したところで、自分たちの思いだけで結束していこうとする。一つになろうとする。しかし、その「結束」はやがて「結託」へと変わっていくのだと思います。「結束(志を同じくする者が一つとなること)」それ自体は悪いことではないでしょう。しかし、神さまを締め出して自分たちの思いだけで「結束」しようとすると、それはいつしか「結託」になっていく。「結託」とは「不正を行なうためにグルになること」と辞書にあります。有名になる、自分たちの名をあげる、そのために自分たちに都合の悪いことは隠ぺいするようになり、自分たちと同じ考えを持つ者だけで結束し、結託し、自分たちの考えに合わない者たちは排除していく、切り捨てていく、そのようにして自ら取り返しのつかない事態を招いていくことになる私たち人間の姿というものが、ここに示されているように思います。これに対して、神さまは人々の言葉を混乱させ、互いの言葉を聞き分けられぬようにされたので、結果彼らは町の建設をやめ、そこから全地に散らされていったと言われています。

言葉を混乱させられ、全地に散らされた、ということは、一見、神さまの厳しい裁きに思えることですが、しかし、神さまの御心は、最初から人々を全地に散らすことにあったのです。そのようにして、神さまの祝福が全地に、地の果てに至るまで満ちることを神さまは望んでおられる。そうであるならば、ここで人々たちが全地に散らされたということは、神さまの大きな祝福のうちにあることだと言えるでしょう。そして、このバベルの塔の出来事が、神さまの御心に適ったことであり、神さまの大きな祝福のうちにあるということが、まさに「聖霊降臨」の出来事を通して確かにされているのです。

かつてバベルにおいて、バラバラにされたとされる言葉、そして全地に散らされた人々。その互いに異なる言葉や人々が、聖霊の働きによって一つにされていく。ただしそれは、皆がもう一度同じ一つの言葉を話すようになるというようなことではなくて、あらゆる国の人々にその人たちの言葉で、ただ一つの福音、神さまの偉大な御業が伝えられていくという形であったのです。地の果てまで福音が宣べ伝えられていく、さまざまな状況に福音が伝えられていく、そのために私たちの間に存在するさまざまな壁や限界(文化や言葉の違い)と思えるものが、しかし、聖霊の働きによって越えられていくのです。そして、そこでは、お互いの違いというものは宣教の妨げとなるものではなく、そうではなくて、福音の豊かさ、神さまの御業の偉大さ、恵みの大きさを証しするものとなるのです。

今日、聖霊降臨の主日に、私たちは自分の手が神さまによって今しっかりと握られていることを信じましょう。そうして、私たち自身のうちに聖なる霊が働いていることに気づかされていきましょう。たとえなお恐れや不安を抱えているとしても、あらゆる障害を乗り越え、壁を越えていくことのできる聖なる霊が、今私たちをしっかりととらえてくださっています。神さまの優しくも力強い聖なる御手が、私たち一人ひとりの手をしっかりと握ってくださっています。聖霊きたれり!このことを信じて歩みましょう。

どうか望みの神が、信仰から来るあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みに溢れさせてくださるように。アーメン。

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復活後第四主日説教 2013年4月28日

「互いに愛し合いなさい」(ヨハネ福音書13章31~35節より)
江本真理牧師

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+私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。

イエスさまは言われました。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(34~35節)

今日は、このイエスさまが語られている「互いに愛し合いなさい」というメッセージについて、聞いてみたいと思います。

イエスさまが語られたこの言葉は、ご自分がこれから捕らえられて十字架に架けられていくことを知りながら、そのことが起こる前に、ご自分の愛する弟子たちに対して、これだけはあなたがたに伝えておきたいという強い思いの中でお語りになった言葉でありました。

イエスさまは「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」とおっしゃっておられます。ここに「わたしがあなたがたを愛したように」という言葉があります。つまり、イエスさまがまず私たちのことを愛してくださった、私たちのことを愛してくださっている、そのイエスさまの愛を受けて、そのイエスさまの愛の中で、私たちが互いに愛し合うという生き方をしていくのだと言い残されたのです。

それでは、イエスさまはどのように私たちのことを愛してくださったのでしょうか。イエスさまの愛が最もよく表されているのは、イエスさまの十字架の出来事です。私たちのためにご自分の命をすら差し出してくださった、その十字架の愛です。

イエスさまは、ヨハネ福音書15章の「わたしはぶどうの木」とおっしゃった箇所でもこう言われています。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(15章12~13節)。

そのように、私たちを「友」と呼んでくださり、「友のために自分の命を捨てる」という、これ以上ない愛の姿を示してくださった。それがイエスさまです。では、イエスさまがそのように私たちを愛してくださるのは、私たちがそのように愛されるに足るほどに立派だったからでしょうか。

ここでローマの信徒への手紙五章(6~10節)を開いてみたいと思います。

「6実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。7正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。8しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。9それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。10敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。」

ここにはイエスさまの十字架の愛が端的に言い表されています。どんなときに、つまり私たちがどんな状態のときにイエスさまが私たち愛し、私たちのために十字架に架かってくださったのか、そのことが記されています。三つ挙げられるでしょうか。

まず一つ目は6節です。「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった」。ここには「わたしたちがまだ弱かったころ」と書いてあります。自分で善を行うことができない弱さ、また誘惑に打ち勝つことのできない弱さを持つ、そういう「不信心な者」のためにイエスさまは十字架に架かって死んでくださったというのです。

二つ目は8節です。「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」。二つ目は、「わたしたちがまだ罪人であったとき」です。

そして三つ目は10節です。「敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいた」。三つ目は、私たちが神さまに敵対していた、敵対心を抱いていたときです。

つまり、私たちが立派だったから、神さまを信じるようになったから、イエスさまは私たちのことを愛してくださったのではありません。私たちがイエスさまのことを知るようになる前から、私たちが教会に行くようになる前から、いや私たちが教会に対して敵対心を持っていたり、あまり良い印象を持っていなかった、そのようなときから、そして私たちがまだ弱く、罪深い生活をしていた、そんなときから、イエスさまは私たちのことをちゃんと見ていてくださり、私たちのことを愛しておられたのです。

そしてそんな私たちを救うために、イエスさまは命を投げ出して、十字架に架かって死んでくださいました。今朝、イエスさまがおっしゃっている「わたしがあなたがたを愛したように」というのは、そういうことです。そしてイエスさまは私たちがまだ罪深かったときから、弱かったときから私たちのことを愛していてくださいました。これは言い換えれば、イエスさまは私たちの弱さも欠点も知りながら、そんな私たちの弱さや欠点でさえも、そのままに受け入れてくださったということです。

このようにイエスさまが私たちを愛してくださった。愛してくださっている。そのように私たちも「互いに愛し合いなさい」と言われます。つまりイエスさまが私たちの欠点も失敗もあるままに私たちを受け入れてくださったように、私たちもまた、欠点もあり、失敗もする、そのような相手を受け入れていくのです。

イエスさまはどうして「互いに愛し合いなさい」と何度も弟子たちにおっしゃったのでしょうか。イエスさまの最も身近にいた12人の弟子たち、そしてマルタやマリア、ラザロ、マグダラのマリア、そういった人たちだけであれば、一致団結し互いに受け入れ合うのは、つまりよく知る身内同士で互いに受け入れ合うということであれば、それは比較的実現しやすいことであったかもしれません。・・・しかしやがて初代教会の時代になると、不特定多数の大勢の人たちが教会にやってくるようになります。その中にはユダヤ人もいれば、ギリシア人もいました。ローマの役人もいました。いろいろな人たちが教会に来るようになる。イエスさまはそのことも見越した上で、弟子たちに「互いに愛し合いなさい」と言い残されたのだと思います。そしてそのときに、お互いに違いがあることを認め合いながら、個性の違い、性格の違いがあることをお互いに認め合いながら、お互いに一致していくように、受け入れ合い、失敗があっても赦し合っていくようにと、そのためにイエスさまは「互いに愛し合いなさい」と何度もおっしゃったのだと思います。

このように「互いに愛し合いなさい」と言われている私たちです。イエスさまはこの私のために、この私の罪の赦しのために十字架に架かって死んでくださり、この私の罪をあがなってくださいました。しかし、このイエスさまの十字架は自分一人だけのものではありません。自分が受け入れられないあの人のためにも、やはりイエスさまは十字架に架かって死んでくださったのです。この十字架の愛を本当に受け止めるところで、私たちはこんな自分が受け入れられているという感謝と喜びの気持ちから、また、人を受け入れることができる者とされていくのです。

そして、そのように私たちが互いに愛し合うとき、互いに受け入れ合い、赦し合っていくとき、私たちがイエスさまの「弟子であることを、皆が知るようになる」(35節)と言われていることも大切です。私たちがイエスさまの弟子であること(イエス・キリストが今も生きて働き、私たちを導いていてくださること)は、互いに愛し合うという私たちキリスト者の生き方を通して表されるのです。ヨハネの手紙一にはこう記されています。

「いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです」(Ⅰヨハネ4章12節)。

イエスさまが弟子たちに、そして私たち一人ひとりに、これだけは伝えておきたいという思いの中で語ってくださった言葉――互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。――この主の御言葉に生かされ、この主の御言葉に生きる私たちでありたいと願います。

どうか望みの神が、信仰から来るあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン


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復活後第一主日説教 2013年4月7日

「主は今生きておられる」 (ルカによる福音書24章13~35)
江本真理牧師

聖壇

 +私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。

先週(3月31日)私たちは、主イエス・キリストの復活の出来事を聞き、イースターをお祝いしました。今朝は、ルカ福音書が、その復活の出来事に続いて記す、エマオ途上での二人の弟子と復活の主イエスとの出会い、その出来事を聞きます。

ここに登場してくる二人の弟子。彼らは、ここで前へ進んでいくというより、後ろへ進んでいくような歩みを進めている人たちです。彼らは、このときまだ他の弟子たちが残っていたエルサレムを離れて、エマオという村へ向かっています(エマオはエルサレムから60スタディオン、約11キロ離れた所)。この二人は明らかに、弟子の群れから離れていった人たちです。二一節にあるように、彼らは、主イエスこそ「イスラエルを解放してくださる」方だと望みをかけていました。しかし、その主イエスが十字架につけられて殺されてしまった。それによって自分たちの望み(希望)も絶たれてしまった。もはやエルサレムにいてもしようがない。むしろ、エルサレムにいたら、主イエスに従っていた自分たちの身さえ危うい。そこで彼らは弟子たちの群れを離れ、エルサレムを離れてエマオという村へと向かった。いわば逃避行です。この二人が前へ進んで行くというより、後ろへ進んでいくような、後ろ向きの歩みを進めている、と言ったのはそういうことです。そのような逃避行の途上で、しかし、この二人は復活の主と出会うことになります。主イエス御自身が近づいてきてくださるという形で、しかも、それが最初主イエスとは気づかないような形で出会うことになるのです。

主イエスが一緒に歩き始められるまで、この二人の弟子はここ数日に起こった一切の出来事について話し合い、論じ合っていたようです。しかし実際話題は二人にとっては暗いものでした。望みを絶たれ、希望を失い、いったいこれからどうしたらいいのだろう、実際エマオへ行ったところでどうしようというのか…。そんな思いの中で、足取りも重かったことでしょう。主イエスは十字架につけられて殺されてしまった。自分たちの希望は絶たれてしまった。しかも婦人たちは「イエスは生きておられる」などと言っている。実際墓に赴いた仲間たちも主イエスの遺体を見つけることができなかったという。いったいどうなっているのか。失望と混乱を抱えながらの逃避行。後ろ向きの歩みです。

しかし、途中から加わってくださった主イエスが、聖書を説き、これを神の言葉として聞き直すようにしてくださいました。聖書全体に渡り、それはメシア(キリスト)について書かれていることを説明してくださいました。苦しみを受けて栄光に入られるメシアの姿を解き明かしてくださいました。彼らは熱心に耳を傾け、その話に夢中になっていきました。そして目指す村に近づいてきたときには、彼らは、なおも先に行こうとされる主イエスを無理に引き止めて、共に泊まるために家に入ったのでした。この二人の弟子たちはいつしか、主イエスの話される言葉にとらえられていたのです。そしてこの後、一緒に食事の席につき、主イエスが賛美の祈りを唱えてパンを裂いてお渡しになったとき、彼らはそれが主イエスだとわかったけれども姿は見えなくなったというのですが、そのとき、彼らはそれまでのことを振り返って言うのです。「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と。あのとき我々の心は確かに燃えていた、そう言うのです。この心の燃え方は不思議な燃え方です。そのときは気づかなくても、あとで振り返って、ああ、あの時は確かに燃えていたではないかというのです。途中でかっかして、火のように燃え上がったというのではないのです。燃えているとき、そのほてりを、その場ですぐに感じ取ったほどに熱くはなかったのです。我を忘れるような熱狂はなかったのです。じっくりと、しかし、確かに燃え始めていた。そういう燃え方、静かな燃焼です。そして静かに見えるけれども、実は内側では、確実にあつく燃え始めている。そのときには自分自身も気づいていない。自分でもわからなかったけれども、しかし確かに心は燃えていた。そういう燃え方です。そして、このように弟子たちの心が燃えたのは、なんと言っても、このとき、復活の主が彼らと歩みを共にしてくださったからでありました。

ここで決定的に大切なことは、私たちにとって、もはや、主の十字架の意味も復活の意味もわかりそうもないと思われるそのところで、主イエスが、なお私たちと共に歩き続けてくださっているということです。希望が絶望にかわり、失意のうちにキリストの語られた恵みの言葉さえただむなしく響くのみ、そう思われるところで、実は主がもっとも近くに来てくださり、歩みを共にしてくださっているのです。・・・「わたしの嘆きがもっとも大きい時、それは実は神がもっとも近くにおられる時」・・・ただ私たちは、そのことに気づいていない。復活の主が、実はわたしの傍らにいてくださることに気づいていないのです。けれども、主は共にいてくださる。そして、主が共にいてくださり続けることによって、初めてそのことに気づかされていくのです。

しかも、ここで私たちが注意して見たいのは、主イエスが御自分の復活の証しを立てるのに何をなさったか、ということです。ご自分が復活して今も生きておられることを示すのにどうなさったかということです。ほら、わたしは甦ったではないか、と他の弟子に見せたように、手にある釘あとを見せ、足にある傷跡をお見せになるということはしませんでした。覆面を脱いで見せるように正体を現すというようなことはなさいませんでした。そうではなく、聖書の話をなさったのです。これは少し回りくどいと思えることかもしれません。しかしここで主イエスは聖書の言葉を解き明かされたのです。「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」(27節)のです。そしてそのとき、それを聞いた弟子たちの心は燃えていた。聖書のみことばを通して、彼らは復活の主キリストに出会っていたのだと言えます。そして心燃えていた。

聖書66巻が語っている主イエスの恵みそのものの豊かさが、私たちの内にあふれ、心を燃やすのです。だから、教会は二千年の間、ひたすらに聖書を読み続け、説きあかし続け、そこで主イエスと出会い、今も生きて私たちと共に歩んでくださっているキリストの恵みに心燃やされてきたのです。御言葉を通して復活の主を知ったこの二人の弟子たちは、熱い思いを持ってその日の出来事を皆に伝えたことでしょう。その日の熱い思いを伝えていったことでしょう。きっと伝えたくて仕方ない、黙っていられなくて伝えていったのです。

私たちも神の言葉が心の中に入ってくるように、心が燃えてくるように求めましょう。聖書を開いて聞いていきましょう。神は私たちの心を燃やす言葉をたくさん持っておられます。私たちを生かす言葉、私たちに命を与える言葉、聖書の中にはそのような神の言葉がいっぱいに詰まっています。神は私たちに言葉を伝えたくて、心の中に届けたくてうずうずしておられることでしょう。わたしはあなたを愛している、わたしはあなたと共にいる、その言葉・メッセージをいつも私たちに語りかけておられるのです。

私たちが生きる現実は甘くありません。厳しいのです。いろいろな困難に出遭う。もうどうにもならない、手に負えない、やっていられない、そういう状況に置かれる。現実の厳しさが自分を打ちのめす。聖書の言葉なんか聞いていられない、そんなもの信じられない、そう思うような出来事がたくさん起こってくる。もう何がどうなっているのか訳が分からず、どうすればいいのかわからない、ということが起こってくる。

しかし、まさにそんな状況にあるときに、復活の主は弟子たちに近づいてきて一緒に歩き始められたのです。そして、彼らに聖書をもって語りかけられたのです。その言葉を聞いて彼らの心は燃えたのです。そこで彼らはまたエルサレムへと向かいます。失望して逃げ出してきたエルサレムへ、主イエスが十字架につけられたその場所へ帰って行くのです。敗北と思っていた主イエスの十字架は実は勝利だった、落胆ではなく希望のしるしだった、そのことを知って弟子たちは戻ってきたのです。戻ってきて、一度は失望したその場所から、今度は新たな希望を持って歩み始めることができたのです。ここに復活の主に出会った人の姿があります。復活の主に目が開かれた人の姿があります。目には見えなくても復活の主が共にいてくださることを知っている人の姿があるのです。

今日は日曜日、主が復活された曜日、今日も私たちはイースター、主イエス・キリストの復活を祝うのです。イエスは復活された!実に復活された!キリスト復活!実に復活!復活の主は今も生きて私たちと歩みを共にしてくださっています。目には見えなくても、主イエスの言葉が私たちの心の中にあるならば、そこで私たちも主イエスと出会っているのです。私たちは主イエスご自身の言葉によって、聖書の言葉によって主イエスに出会います。そして主イエスの言葉は私たちの心をも熱くします。その言葉は生きる力を、平安、安心を与えます。私たちの心を、また私たちの全てを支える力が主イエスの言葉にはあります。主イエスご自身にその力があるからです。私たちはその言葉を通して復活の主イエスと今日も出会うことができます。私たちにはもうすでにその言葉が私たちの手元にまで届けられています。この聖書の中にそれが詰まっています。私たちを燃やし生かし力づける言葉がもう私たちの手の中にあります。――復活の主イエスとの出会い、それがイースターの喜びであり恵みです。

もう一度、最後に申します。私たちが心燃やさねばと気負いつつ主の言葉を聞くのではありません。心燃えないむなしさを感じる中にありながら、その心を主のみ言葉にゆだね、明け渡していくところで、心燃やされていくのです。私たちの心を燃やすことのおできになる主は今確かに生きておられるからです。主は今生きておられる。主の御言葉に心燃やされましょう。

どうか望みの神が、信仰から来るあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン


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四旬節第二主日説教 2013年2月24日

「見えるようになりたい」 (ルカによる福音書18章31~43より)
江本真理牧師

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+私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。

今日の福音書の箇所には、イエスさまの三度目の受難予告に続いて、ある盲人の癒しの記事が記されていますが、これを通して読みますときに、盲人がイエスさまに向かって「主よ、目が見るようになりたいのです」と言った言葉がわたしの心を捕らえて離さないのです。「主よ、目が見えるようになりたいのです」。これはイエス様が「何をしてほしいのか」と尋ねられたその問いかけに対する盲人の答えです。このところを文語訳聖書で読んでみるとこうなります。「イエス問ひ給ふ『わが汝に何を為さんことを望むか』彼いふ『主よ、見えんことなり』」(41節)。「主よ、見えんことなり」。…これほどストレートに自分の願いをイエスさまに告げることができる、その姿勢・態度にわたしは一種の感動を覚えます。私たちにも願いはあります。こうしてほしい、こうなりたいという思いを持っています。けれども、その願い・思いをこの盲人のように素直に、ストレートに言うことができるでしょうか。自分ではこうしてほしい、こうなりたいと思っていても、しかし、心のどこかでそれは所詮無理なこと、あきらめなければいけないこと、どうしようもないこと、そんなふうに思っている節はないでしょうか。あるいは、そこまで悲観的には見ていないとしても、頭で理解できる範囲の中で、つまり自分に何ができるかという可能性を探るような思いで、何とか解決を見出そうとしていないでしょうか。

さて、最初にイエスさまの三度目の受難予告が記されています。「今、わたしたちはエルサレムに上って行く。人の子について預言者たちが書いたことはみな実現する。人の子は異邦人に引き渡されて、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられる。彼らは人の子を、鞭打ってから殺す。そして、人の子は三日目に復活する」(31~33節)。しかし弟子たちはまだこの主イエスの受難と復活の出来事がわかりませんでした。「彼らにはこの言葉の意味が隠されていて、イエスの言われたことが理解できなかったのである」(34節)。彼らの目には、イエスの受難と復活の出来事は隠されていた。見えなくされていた。そんな弟子たちの姿と対照的な形で、続いて、ある盲人の癒しの記事が記されるのです。

イエスさまはエリコという町に近づかれたとあります。エリコの町はエルサレムから20数キロばかりのところにあり、非常に近い。「今、わたしたちはエルサレムに上っていく」と言われたように、イエスさまはいよいよ受難の地エルサレムに近づかれるのです。その時「ある盲人が道端に座って物乞いをしていた」(35節)。ある盲人、彼についてどのような事情があったのか聖書は記しておりません。生まれつき目が見えなかったのか、あるいはもとは見えていたのに途中から見えなくなったのかもしれません。いずれにしろ、今その目の見えない人は、群衆が通って行くのを耳にしたのです。大勢の人が自分の前を通り過ぎていくただならぬ雰囲気、自分の目が見えない分、耳を通してそのただならぬ雰囲気を聞き取り、感じ取った彼は尋ねます。「これは、いったい何事ですか」。すると、ある者が「ナザレのイエスのお通りだ」と知らせます。ナザレのイエス、彼のことは恐らくこの盲人も噂として聞いていたでありましょう。数々の不思議な業や奇跡を行った人物。そのナザレのイエスが通られる。彼は今このときしかないと思ったのでしょう。まさにこの瞬間に彼は自分のこれまで心の中で叫び続けてきた叫びを、声を大にして叫ぶのです。「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」。

「わたしを憐れんでください」。この叫びは今日の日課の直前に記されている「金持ちの議員」の話で、「ある議員がイエスに、『善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか』と尋ねた」(18節)のとは違い、もうどうにもならない状況の中で、ただただ今自分の前を通り過ぎようとするイエスに、憐れみを求める懇願です。もはや、自分が「何をすれば」などと言うことはできない。むしろ自分ではもうどうにもならない、どうすることもできない。それを知っていればこそ、その自分の無力さの中で、ただただ外からの憐れみを乞い求める、そんな姿が伝わってきます。それは、イエスさまの「先に行く人々が叱りつけて黙らせようとした」にもかかわらず、そのようなことで意気消沈してしまうようなものではありませんでした。彼は「ますます、『ダビデの子よ、わたしを憐れんでください』と叫び続けた」のです。

このように必死に叫び続けるこの盲人の訴えを、どうしてイエスさまが見過ごしにされるでしょうか。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」(ルカ11章9~10)とイエスさま御自身が弟子たちに言われたように、今、この必死に憐れみを乞い求める一人の盲人の叫び、心からの叫びに、イエスさまは足を止められます。彼を自分のそばに呼び寄せ、そして言われるのです。「何をしてほしいのか」。

イエスさまがベトザタの池で病人を癒されたとき「良くなりたいか」と尋ねられたのを思い起こします(ヨハネ5章1~9)。そのとき38年も病気で苦しんでいたその人は、「良くなりたいか」とのイエスさまの問いかけに、素直に「良くなりたいです」と答えることができませんでした。良くなりたいのは自明のこと、自分がずっと願い求めていたことである。ただその願いを実現するための手段がないのである。池の水が動くとき、その池に真っ先に入ればどんな病気も癒されると言われていたその池に、自分を入れてくれる者がいないのである。癒される方法はわかっていても、その方法を実行する手段が見つからないのである・・・。そのように訴えたのでした。

しかし今、この盲人は、イエスさまの「何をしてほしいのか」との問いかけに、「主よ、目が見えるようになりたいのです」とストレートに答えています。方法も手段も見あたらないし、わからない。自分の力ではどうすることもできない。しかしそうであるからこそ、すべてを今自分の前にいる主イエスにかけるしかない。すべてを委ねきって、憐れみを乞うしかない。ただ与えられるのを待つしかない。そういう自分の状況を知っていたからこそ、「主よ、目が見えるようになりたいのです」と、自分の望んでいることをありのままに、ストレートに言うことができたのでしょう。今ここにいる主イエスにすべてを委ねて、自分の全存在をかけて、願い求めて行く姿勢。ただ主イエスのみに頼る姿勢。この姿勢こそが、イエスさまをして「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った」(42節)と言わしめたのでしょう。そしてまた、自分の無力を知ればこそ、自分の側には何ら可能性がないことを知ればこそ、目が開かれた喜び、(再び)光を与えられた驚きと喜びから、神への讃美、ほめたたえが出てくるのでしょう。そして彼は主イエスに従ったのであります。

「主よ、目が見えるようになりたいのです」。一人の盲人のこの切実な願い、これはそうしてもらえたら嬉しい、そうなったらいいという程度のことではなくて、むしろ今私の前に立つあなたに、キリストにそうしてもらう他ないという切実な願いであります。あなたがこのわたしの目を開いてくださるのです。わたしに光を与えてくださるのです。あなただからこそそれができるのです。だからこそわたしははっきりと言います。「主よ、目が見えるようになりたいのです」。わたしの目を開き、わたしに光を与えてください!

このように、ただひたすらにイエスさまへと向かっていく姿勢、信仰の姿勢があるとき、イエスさまの言葉はわたしたち(の内)に力強く働いてくださるのです。そのような意味で、この癒された一人の盲人に示されている姿勢は、イエスさまから注がれる力をそのまま自分のうちに受け入れていく姿勢であると言えます。この彼の姿勢を見るとき、「祈り」について思います。

O・ハレスビーという、ノルウェーのルーテル教会の牧師、神学者が『祈りの世界』という本の中で、「祈り」についてこのようなことを書いています。「祈るとは心を開いてイエスをお迎えすることです」。・・・「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」(黙示録3章20)。祈りの本質とは、わたしたちの内に入って来られようとして、わたしたちの心の扉を叩いているイエスさまを、私たちが心を開いて自分の内にお迎えすることだというのです。すると、わたしたちの内でイエスさまが良い働きをしてくださるというのです。昔から祈りは魂の呼吸と言われてきました。わたしたちの体に必要な空気は、わたしたちを四方から取り囲んでいます。空気は自然にわたしたちの中に入ってこようとしています。呼吸を止めることは、吸うことよりもはるかに難しいのです。口を開きさえすれば、空気は自然に肺の中に入ってきて、体全体に生命を与える機能を果たすのです。魂が必要とする空気は、いつも、どこでもわたしたちを自然に囲んでいます。神は多様で十分な恵みをもって、キリストにあってどこででもわたしたちを囲んでいます。ですから、わたしたちはただ魂(心)の扉を開きさえすればいいのです。そのように祈りは魂の呼吸であり、わたしたちの乾ききって打ちしおれた心にキリストをお迎えするための器官なのだと、そのようなことをハレスビーは言っています。

祈るとは心を開いてイエスをお迎えすることである。これはわたしたちに大きな示唆を与えてくれる言葉であると思います。祈りには、積極的に願い求めていくという面があります。祈りは神様から命じられていることであり、わたしたちも積極的に神様に祈り、願い求めていくことが大切です。そして確かにイエス様も、このように祈りなさいと言って祈ること(「主の祈り」)を教えてくださり、続けて、熱心に祈り求めることの大切さを説いて「求めなさい。そうすれば与えられる・・・」と言われたのです。けれども、これだけを知っているだけでは、いつの間にかわたしたちの祈りは自分勝手な思いやわがままを押し通すということにもなりかねません。そしてその祈り、願いがかなわないと、もうあきらめて願うことをしなくなってしなう、祈ることをしなくなってしまうということになってしまいます。ですから、熱心に祈り求める、必死に願い求める、というときの、その熱心さ、必死さには、自分にはどうすることもできないという自分の無力さを認めて、ただイエスさまの働きに委ねていく、心を開いてイエスさまを自分の内にお迎えするということが求められているのです。

今、聞いてまいりました「主よ、見えるようになりたいのです」との主イエスに対する答え、この率直な、ストレートな言葉も、どうしても・・・という熱心さ、必死さと共に、自分を開いて、自分の心を開いてイエスさまに委ねていく、イエスさまをお迎えしていく、そのような彼の姿勢を示す言葉なのです。そしてそのとき、「見えるようになれ」と言われるイエスさまの言葉が、わたしたちの内に力強く働くのです。わたしたちもこの主イエスに癒された盲人のような姿勢をもって、神に祈り、願い求めていくものでありましょう。

「求めなさい。そうすれば、与えられる。」これが今年度の竹の塚教会の主題聖句です。

どうか望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。

アーメン


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顕現節第三主日礼拝説教 2013年1月20日

「キリストの福音宣言」

(ルカ福音書四章16~21節より)

江本真理牧師

+私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。

先週(1月13日)の礼拝後にもたれた讃美の会で、「今日はこれを歌いましょう!」ということで、「新しい年を迎えて」という讃美歌のコピーが渡されました。コピーは「讃美歌21」からのものでしたが、この讃美歌はルーテル教会で編集している「教会讃美歌」にも収められていて、新年に歌われる讃美歌です。その一番の歌詞にこうあります。「新しい年を迎えて、新しい歌を歌おう。なきものをあるが如くに呼びたもう神をたたえて、新しい歌を歌おう」(教会讃美歌49番1節)。

この一番の歌詞の中で「なきものをあるが如くに呼びたもう神」ってどういうことですか、という質問がその場で出ました。「なきものをあるが如くに、呼びたもう神」、これはローマの信徒への手紙4章17節にあるみ言葉からとられています。新共同訳聖書では「死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神」と記されているみ言葉です。口語訳聖書では「死人を生かし、無から有を呼び出される神」。さらに文語訳聖書では「死人を活し、無きものを有るものの如く呼びたまふ神」となっています。この讃美歌の歌詞は、文語訳の言い回しからとられているようです。(文語訳では少しニュアンスが異なるように感じますが、)新共同訳や口語訳にあるように「死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神」、「無から有を呼び出される神」、その神さまをたたえる。天地創造の初めに「光あれ」とおっしゃって、混沌とした闇の中に「光」を呼び出され、天地をつくり、人間をつくり、命を与えられた、その御業を信じて、この神さまにあって生かされていく歩みをしていこうとの決意があらわされていると思います。

「存在していないものを呼び出して存在させる神」、「無から有を呼び出される神」。この神さまの御業のゆえに、私たちは明日への希望を抱いて歩み続けることができます。たとえ希望を見い出すことができない状況に置かれたとしてもなお、「無から有を呼び出される」この神さまのゆえに、私たちは明日への希望を抱いて今を生きるのです。このローマの信徒への手紙四章一七節のみ言葉はこう続いています。「存在していないものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ、その御前でわたしたちの父となったのです。彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて信じ、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、多くの民となりました。そのころ彼は、およそ百歳になっていて、既に自分の体が衰えており、そして妻サラの体も子を宿せないと知りながらも、その信仰が弱まりませんでした。彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を讃美しました。神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたのです」(ローマ4章17b~21節)と。

神は約束したことを実現させる力もお持ちの方である、との確信。神は約束してくださったことを必ず実現してくださる。このことへの信頼が、絶望の中に希望を見い出す基となる、絶望の中に確かな希望が立てられる礎となるのだということを示されます。だから「新しい歌を歌おう」。私たちは、たとえ行き詰まり、八方塞がりのような状況の中に置かれたとしてもなお、これまでの歩みの延長線上、これまでの出来事の積み重ねの先にではなく、「無から有を呼び出される神」のゆえに、その御業を信じて、新しい歌を、新たな希望を歌うことができる。明日への希望を抱いて今を生きることができるものであるのです。

1月12日(土)の夜に、北海道の道北地区で牧会しておられる同僚のY先生の一番下のお嬢さんが天に召されたとの知らせを受けました。突然の知らせに言葉を失いました。そのつい二、三日前に、少し遅れて届いたY先生からの年賀状には、先生の三人のお子さんが仲良く写っている写真がのっていました。昨年の三月に生まれて九カ月になる三女のお嬢さんが、二人のお姉さんに抱っこされて写っている、そんな写真でした。Y先生のご家族とは、福島におられたときに、妻と息子と共に訪れたことがあり、「今度また、お互いに一人ずつ増えた家族同士で会えたらいいね」と妻と話していたばかりでした。お嬢さんの死因は乳幼児突然死症候群、午後のお昼寝中の出来事だったそうです。一体なんということが起こるのだろうか・・・かける言葉も見つからないままに、16日(水)に旭川教会で行われた葬儀に出席してきました。今まで見たことのない小さな棺、この事実をどう受け止めたらよいのかという戸惑いと深い悲しみにあるご遺族の姿に、胸が締めつけられる苦しさを覚えました。・・・その悲しみの中で、お父さまのY先生がみ言葉を取り次いでくださいました。信仰者として、主イエスの約束してくださる永遠の命を信じ、御国での再会を心から信じ、その信仰は揺らがない中にあって、しかしこのどうしようもない現実に揺り動かされて「主よ、どうしてですか?いったいなぜですか?」と取り乱さざるを得ない心境を吐露されながらも、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」と語りかけてくださる主イエス、そして「このことを信じるか」と、今私たちと同じ悲しみの極みに立って、その悲しみのただ中に、私たちが見つめるべきことを確信をもって語りかけてくださる主イエスの姿を示してくださいました。そしてこの主イエスのまことのことばを私たち家族と共に受け止めてほしいと。その場に集うだれもがこの出来事に言葉を失う、そのただ中にあって、主イエスの言葉がまことの言葉として、ご家族とまた私たちにとっての支えとなり、守りとなり、導きとなることを信じて、私たちは「アーメン(まことにそのとおりです)」と唱えました。このまったく言葉を失う状況のただ中で、私たち人間のどんな言葉もただ虚しく響くこの現実のただ中で、しかし私たちには、神の御業を信じ、神のみ言葉を信じて、その神のみ言葉に「アーメン(まことにそのとおりです)」と応えていく、この「アーメン」という言葉が与えられているのだということを心に刻みました。

今朝の福音書には、主イエスの故郷ナザレでの出来事が記されています。

「イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。」(16~17節)

ここでイエスさまが手渡された巻物を開いてお読みになったのは、イザヤ書61章冒頭の部分でありました。

「主の霊がわたしの上におられる。/貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。/主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、/主の恵みの年を告げるためである。」

ここには、捕らわれからの「解放」と「自由」、「主の恵みの年」を告げる神の救いのみ言葉、福音(よき知らせ)が語られています。

そしてさらに、イエスさまはここで「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」とはっきりとお語りになったのです。

預言者は、神の救いの福音をいつか成し遂げられる約束として語りましたが、イエスさまはこれを「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と語られました。これは、神の救い、福音の到来を告げる、キリストによる「福音宣言」と言うべきものです。

他ならぬこの神の救いの福音を実現されるその方ご自身が、今ここに来られ、お語りになる。貧しい人に福音を告げ知らせ、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げる。このようなことを文字通り行うことのおできになるその方ご自身が、今ここにおられる。そして、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と力強く宣言されるのです。

私たちは病に捕らわれ、死の力に捕らわれ、苦難と絶望とに捕らわれる者です。その捕らわれの中で言葉を失っていく者です。しかし、そんな私たちに、そんな私たちの捕らわれの状況に切り込んでくるまことの言葉があるのです。生けるいのちの言葉があるのです。捕らわれからの「解放」と「自由」、「主の恵みの年」、すなわちキリストによる私たちの確かな救いの到来を告げる神のみことば、「無から有を呼び出される神」のみことばが!

私たちは、この預言者を通して語られた神のみことば、約束のことばと、それを今ここに確かに実現してくださるキリスト・イエスの宣言、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と告げられるキリストの福音宣言に、こころから「アーメン」と応えていきたいと思います。捕らわれからの解放と自由を信じ、今ここに「主の恵みの年」が宣言されていることに希望を抱いて、たとえ今困難の中にあっても、苦しみや悲しみの中に置かれているとしてもなお、まさにその今このときを生きていく者でありたいと願います。

「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。」(詩編46編2節)

どうか望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みに溢れさせてくださるように。アーメン


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主の顕現日礼拝説教 2013年1月6日

「希望の星」

(マタイ福音書2章1~12節より)

江本真理牧師

+私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。

皆さま、明けましておめでとうございます。新しい年を迎えて一日の新年礼拝でお会いした方もおられますけれども、今日はじめてお会いする方もおられますので、改めて申し上げます。今年もどうぞよろしくお願いいたします。

 

本日は教会の暦でいうと顕現主日と呼ばれる日曜日です。与えられている福音書の箇所は、よく知られている東方から来た占星術の学者たちの記事でありますが、今日は、このテキストが示すように、いわゆる3人の学者たちによって代表されるような異邦人の世界に対する、キリストの顕現、メシア(救い主)の姿が公にあらわされたことを覚える主日です。この「占星術の学者たち」というのは、口語訳聖書では「博士たち」となっていますが、これはギリシャ語でマギと言います。マギとは元来ペルシャの祭司階級に属する人たちで、哲学、薬学、自然科学にも秀でていて、占いや夢を解くというようなこともやっていたようです。したがって、旧約聖書におけるメシア預言についての知識も恐らく持っていたのでしょう。また、このマギについては教会の中でさまざまな伝説が生まれました。東方教会の伝説では、マギの数は12人とされているそうです。しかし西方教会では、彼らが、黄金、乳香、没薬という3つの贈り物をささげたとあるので3人とされるのが普通です。私たちも普通3人と思っていますが、実は聖書にはその数は記されていません。また、中世になると3人のマギは3人の王とされました。さらにこの3人には、カスパル、メルキオール、バルタザールという名前さえ与えられ、カスパルはひげのない青年であり、メルキオールはひげの生えた老人、バルタザールは黒人であるとされるのです。これは、この3人が当時知られていた世界の三大陸、ヨーロッパ、アジア、アフリカを代表するとして、一人は黒人として描かれるようになったようです。このように、この箇所は教会の中でさまざまに解釈され、また人々の想像力をかきたててきた箇所となっていますが、しかしこれらの伝説の中心にあるのは、異邦人の世界、ひいては世界中に救い主イエス・キリストの誕生が明らかにされたということです。幼子イエスの誕生は、全世界が待ち望んでいたメシアの到来だったのであり、それが人々の期待であったことが、これらの伝説を生んできたといえるのです。

 

さて伝説の話はこれぐらいにして、テキストそのものに目を向けたいと思います。マタイは、主イエスの誕生の状況そのものを詳細には語っていません。ただ「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった」と記しているだけです。むしろここでの中心は、幼子イエスの誕生に際して、この誕生を祝い礼拝した最初の人々について書かれており、それは東方から来た占星術の学者たちであったというのです。「私たちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」(2節)とありますが、この「拝む」というのは「礼拝する」という意味です。つまり、この学者たちが東の方からエルサレムにやってきたのは、幼子イエスを礼拝するためでありました。そして、少なくともこのマタイの記事によれば、イエスを王として礼拝したのは、占星術の学者たちだけでありました。ユダヤ人たちは誰一人彼らと歩みを共にすることがなかったのです。

 

何よりも王ヘロデはユダヤ人の王が生まれたと聞いて「不安を抱いた」(3節)とあります。彼は自分こそユダヤ人の王であると自認していました。ですからユダヤ人の王は自分の王宮で生まれるはずだと思っていたわけです。それなのに自分の知らない間に、どこかで「ユダヤ人の王」が生まれているとはどういうことか。このヘロデという人は常に不安を感じ、自分の王位を守るために自分の妻と3人の息子でさえも疑って殺してしまったほどの人物でありました。したがって彼の心の中には恐れと同時に、その王として生まれたメシアをひそかに殺してしまわなければならないという考えが浮かんだはずです。エルサレムの人々までも不安を抱いたとありますが、恐らくこれは、ヘロデ王がユダヤ人の王として生まれた幼子を抹殺しようとして、どんな暴挙に出るかと心配になったのではないでしょうか。自分たちまでそのとばっちりを受けなければよいがと不安になったのです。ともかく、ヘロデ王は早速、ユダヤ人の宗教的な指導者であった祭司長や律法学者たちを集めて、メシア(キリスト)はどこに生まれることになっているのかと質問します。すると彼らは、即座に預言者ミカの言葉を引用して、ベツレヘムであると答えるのです。ヘロデは自分の殺意が知られないように、ひそかに占星術の学者たちを呼び寄せ、星の現れた時期を確かめ、それから計算して幼子であるメシアの年齢を割り出そうとしました。さらに「私も行って拝みたいから、詳しく調べて報告してくれ」と偽って、ベツレヘムの場所まで教えて彼らを送り出すのです。

 

ここで不思議なのは、祭司長や律法学者たちは、どうして東方の学者たちと一緒にベツレヘムに行こうとしなかったのかということです。彼らは、メシアがどこで生まれるかということは他人に教えることができるほどよく知っていました。しかしそれ以上の関心を示さなかったのです。エルサレムからベツレヘムまではわずか八キロしかありません。はるばる何千キロもの遠いところから、危険を犯し、異邦人である学者たちがメシアを求めてやってきたのとは実に対照的です。彼らはメシアに関しては学者たちよりもはるかによく知っていたはずなのに、目と鼻の先にあるベツレヘムに行こうともしなかったのです。どうしてでしょうか。彼らにはメシアを求める心がなかった。あるいは無関心を決め込んでいたのかもしれません。彼らは、神殿の儀式を守ることや、律法の研究に心を奪われ、メシアが現れるという預言が成就したことを知りながら、無視してしまったのです。自分自身のことにばかり気を取られていて、いつのまにか大切なことを見失ってしまっている。本来目を向けなければいけないことから目をそらしてしまっている。これはとても悲しいことです。

 

メシアを真っ先に信じなければならないユダヤ人が信じないで、神の救いの計画から遠いと思われていた異邦人が信じたというのは、一種の皮肉であるかもしれません。この福音書を記したマタイという人はユダヤ人キリスト者であったといわれますが、そうだとすれば、マタイは身内に対して語っていることになります。恐らく当時のユダヤ人が、自分たちの心のかたくなさに気づき、無関心の態度を改めるようにと願って、ことさらにこの記事を記したのだと思います。

 

一方メシアを心から求めていた占星術の学者たち、彼らが出かけると、その東方で見た星が先だって進み、ついに幼子のいる場所の上に止まりました。「学者たちはその星を見て喜びにあふれた」とあります。これは原文を見てみると、「この上もなく大きな喜びを大いに喜んだ」と表現されているように、とても大きな喜びに満ちあふれたことが伺えるのです。彼らは自分たちの国を出発してからベツレヘムに着くまで、山あり谷ありの危険な長旅であったでしょう。時には、本当にメシアに会えるのだろうかとか、あるいは、あの星の徴は確かにメシアの誕生の徴なのだろうかといった疑いが、彼らの心をよぎったかもしれません。しかし彼らはそれらの疑いを振り払い、耐え忍びつつ旅を続けたのです。そして、その長い苦労の結果味わう喜びでした。

 

こうして学者たちは母マリアと共におられた幼子に出会うのです。そして彼らはひれ伏して拝みました。礼拝したのです。学者たちの信仰が本物であったことは、この幼子イエスを礼拝したということによって明らかにされています。もし彼らが幼子イエスに出会っても、それがメシアであるという信仰がなかったら拝みはしなかったでしょう。拝む、礼拝するというのは、それが信仰の対象であることを示しています。信仰がなくては本当の意味での礼拝はありえないし、礼拝なしの信仰というのもありえないのです。さらに彼らは、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげたとあります。学者たちはキリストを拝んだだけでなく、彼らの最も大切なものをささげたのです。これは、自分を主にゆだね、仕えていく姿勢ではないでしょうか。

 

この記事はイエス・キリストに対する異なった三つの態度があることを教えています。第一はヘロデです。キリストに反感を抱き、何とかして抹殺しようという態度です。第二は祭司長や律法学者たちです。知識としては知っていても、キリストに無関心な冷たい態度です。第三は学者たちのように、キリストを求め、信じ、礼拝する態度です。そして私たちに求められているのは、当然三番目の態度です。しかし私たちの信仰生活は常にヘロデや祭司長、律法学者たちのような態度に陥る危険性を持っているのです。そのような危険を免れるために、ちょうど学者たちが星に導かれてイエス・キリストのもとへと旅を続けることができたように、私たちにも、主イエス・キリストのもとに導いてくれる星が必要です。では私たちの信仰生活を導いてくれる、私たちにとっての星とは何でしょうか。それは聖書のみ言葉です。現在の私たちをキリストに導き、出会わせてくれるのは聖書のみ言葉、神さまの言葉なのです。詩編の詩人はこう歌いました。『あなたのみ言葉は、わたしの道の光、私の歩みを照らす灯』。

 

私たちの歩みを照らす光、それは聖書のみ言葉です。私たちはキリストへと導く光に照らされているのです。その光に不安を抱いたり、無関心を装うのではなく、その光に導かれてキリストのもとへと向かっていきたいものです。なぜなら、そこにこそ大いなる喜びがあるからです。

 

そして、12節に彼らは「別の道を通って自分たちの国へ帰って行った」とあるように、主イエスを「ひれ伏して拝む」人々が、そこから「別の道を通って…帰って行った」と、つまり、彼らは喜びに満ちて、自由に確信に満ちて、それまでとは違った「道を通って」行く、それまでとは違う生き方へと新たに踏み出していくのです。

 

そのような導きを与える光、神のみ言葉! この光なくして私たちは歩んでいくことが非常に困難な時代に生きています。だからこそこの光を見失ってはいけません。光は輝いています。その光に目を向けましょう。そしてその光に導かれてキリストに出会い、キリストに仕え、礼拝していく、そのような信仰生活をこの一年もともに歩んでいきましょう。「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く」(イザヤ60章1)。

 

祈りましょう。主なる神さま、この礼拝のときを感謝いたします。あなたは私たちを導く光を示してくださいました。私たちはその光に従っていきたいと思います。私たちが疑いや迷いに陥るときにも、ただ主に信頼して、忍耐強く従い、大いなる喜びにあずかることができますように、主よ、助けてください。


待降節第一主日礼拝説教 2012年12月2日

「恵みの約束を果たすために」

(ルカ福音書19章28~40節)

江本真理牧師

+私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

今日からアドヴェントに入りました。今朝は、教会学校の子どもたちによるクリスマスツリーの飾り付けが行われ、聖壇の上のアドヴェントリースの蝋燭にも一本明かりが灯されています。教会では、クリスマスの前の四週間を「アドヴェント」、日本語では「待降節」と呼んでいます。これは、主の降臨を待ち望む時、主イエスがこの世に降りて来られ、私たちの間に臨在してくださることを待ち望む時です。

主の降臨ということには二つの意味があると言えます。一つは、救い主イエス・キリストがこの世にお生まれになったこと、この世に来てくださったクリスマスの出来事です。そしてもう一つは、その主イエス・キリストが再び来てくださるという、主の再臨を待ち望むことでもあります。かつて主イエスがこの世に来られたクリスマスの出来事を思い起こしつつ、再び主イエスの来られることを私たちは待ち望むのです。

今朝の第一日課では、「見よ、わたしが、イスラエルの家とユダの家に恵みの約束を果たす日が来る」(エレミヤ33章14)と言われています。主が私たちのために恵みの約束を果たしてくださる日が来る。主が約束されたことですから、確かにそれは実現します。この確かさに希望をおいて、私たちのために成し遂げられる神の恵みと憐れみに満ちた救いの出来事の到来を待ち望む。それがアドヴェントです。

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