竹の塚ルーテル教会

Takenotsuka Lutheran Church


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復活後第一主日説教 2013年4月7日

「主は今生きておられる」 (ルカによる福音書24章13~35)
江本真理牧師

聖壇

 +私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。

先週(3月31日)私たちは、主イエス・キリストの復活の出来事を聞き、イースターをお祝いしました。今朝は、ルカ福音書が、その復活の出来事に続いて記す、エマオ途上での二人の弟子と復活の主イエスとの出会い、その出来事を聞きます。

ここに登場してくる二人の弟子。彼らは、ここで前へ進んでいくというより、後ろへ進んでいくような歩みを進めている人たちです。彼らは、このときまだ他の弟子たちが残っていたエルサレムを離れて、エマオという村へ向かっています(エマオはエルサレムから60スタディオン、約11キロ離れた所)。この二人は明らかに、弟子の群れから離れていった人たちです。二一節にあるように、彼らは、主イエスこそ「イスラエルを解放してくださる」方だと望みをかけていました。しかし、その主イエスが十字架につけられて殺されてしまった。それによって自分たちの望み(希望)も絶たれてしまった。もはやエルサレムにいてもしようがない。むしろ、エルサレムにいたら、主イエスに従っていた自分たちの身さえ危うい。そこで彼らは弟子たちの群れを離れ、エルサレムを離れてエマオという村へと向かった。いわば逃避行です。この二人が前へ進んで行くというより、後ろへ進んでいくような、後ろ向きの歩みを進めている、と言ったのはそういうことです。そのような逃避行の途上で、しかし、この二人は復活の主と出会うことになります。主イエス御自身が近づいてきてくださるという形で、しかも、それが最初主イエスとは気づかないような形で出会うことになるのです。

主イエスが一緒に歩き始められるまで、この二人の弟子はここ数日に起こった一切の出来事について話し合い、論じ合っていたようです。しかし実際話題は二人にとっては暗いものでした。望みを絶たれ、希望を失い、いったいこれからどうしたらいいのだろう、実際エマオへ行ったところでどうしようというのか…。そんな思いの中で、足取りも重かったことでしょう。主イエスは十字架につけられて殺されてしまった。自分たちの希望は絶たれてしまった。しかも婦人たちは「イエスは生きておられる」などと言っている。実際墓に赴いた仲間たちも主イエスの遺体を見つけることができなかったという。いったいどうなっているのか。失望と混乱を抱えながらの逃避行。後ろ向きの歩みです。

しかし、途中から加わってくださった主イエスが、聖書を説き、これを神の言葉として聞き直すようにしてくださいました。聖書全体に渡り、それはメシア(キリスト)について書かれていることを説明してくださいました。苦しみを受けて栄光に入られるメシアの姿を解き明かしてくださいました。彼らは熱心に耳を傾け、その話に夢中になっていきました。そして目指す村に近づいてきたときには、彼らは、なおも先に行こうとされる主イエスを無理に引き止めて、共に泊まるために家に入ったのでした。この二人の弟子たちはいつしか、主イエスの話される言葉にとらえられていたのです。そしてこの後、一緒に食事の席につき、主イエスが賛美の祈りを唱えてパンを裂いてお渡しになったとき、彼らはそれが主イエスだとわかったけれども姿は見えなくなったというのですが、そのとき、彼らはそれまでのことを振り返って言うのです。「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と。あのとき我々の心は確かに燃えていた、そう言うのです。この心の燃え方は不思議な燃え方です。そのときは気づかなくても、あとで振り返って、ああ、あの時は確かに燃えていたではないかというのです。途中でかっかして、火のように燃え上がったというのではないのです。燃えているとき、そのほてりを、その場ですぐに感じ取ったほどに熱くはなかったのです。我を忘れるような熱狂はなかったのです。じっくりと、しかし、確かに燃え始めていた。そういう燃え方、静かな燃焼です。そして静かに見えるけれども、実は内側では、確実にあつく燃え始めている。そのときには自分自身も気づいていない。自分でもわからなかったけれども、しかし確かに心は燃えていた。そういう燃え方です。そして、このように弟子たちの心が燃えたのは、なんと言っても、このとき、復活の主が彼らと歩みを共にしてくださったからでありました。

ここで決定的に大切なことは、私たちにとって、もはや、主の十字架の意味も復活の意味もわかりそうもないと思われるそのところで、主イエスが、なお私たちと共に歩き続けてくださっているということです。希望が絶望にかわり、失意のうちにキリストの語られた恵みの言葉さえただむなしく響くのみ、そう思われるところで、実は主がもっとも近くに来てくださり、歩みを共にしてくださっているのです。・・・「わたしの嘆きがもっとも大きい時、それは実は神がもっとも近くにおられる時」・・・ただ私たちは、そのことに気づいていない。復活の主が、実はわたしの傍らにいてくださることに気づいていないのです。けれども、主は共にいてくださる。そして、主が共にいてくださり続けることによって、初めてそのことに気づかされていくのです。

しかも、ここで私たちが注意して見たいのは、主イエスが御自分の復活の証しを立てるのに何をなさったか、ということです。ご自分が復活して今も生きておられることを示すのにどうなさったかということです。ほら、わたしは甦ったではないか、と他の弟子に見せたように、手にある釘あとを見せ、足にある傷跡をお見せになるということはしませんでした。覆面を脱いで見せるように正体を現すというようなことはなさいませんでした。そうではなく、聖書の話をなさったのです。これは少し回りくどいと思えることかもしれません。しかしここで主イエスは聖書の言葉を解き明かされたのです。「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」(27節)のです。そしてそのとき、それを聞いた弟子たちの心は燃えていた。聖書のみことばを通して、彼らは復活の主キリストに出会っていたのだと言えます。そして心燃えていた。

聖書66巻が語っている主イエスの恵みそのものの豊かさが、私たちの内にあふれ、心を燃やすのです。だから、教会は二千年の間、ひたすらに聖書を読み続け、説きあかし続け、そこで主イエスと出会い、今も生きて私たちと共に歩んでくださっているキリストの恵みに心燃やされてきたのです。御言葉を通して復活の主を知ったこの二人の弟子たちは、熱い思いを持ってその日の出来事を皆に伝えたことでしょう。その日の熱い思いを伝えていったことでしょう。きっと伝えたくて仕方ない、黙っていられなくて伝えていったのです。

私たちも神の言葉が心の中に入ってくるように、心が燃えてくるように求めましょう。聖書を開いて聞いていきましょう。神は私たちの心を燃やす言葉をたくさん持っておられます。私たちを生かす言葉、私たちに命を与える言葉、聖書の中にはそのような神の言葉がいっぱいに詰まっています。神は私たちに言葉を伝えたくて、心の中に届けたくてうずうずしておられることでしょう。わたしはあなたを愛している、わたしはあなたと共にいる、その言葉・メッセージをいつも私たちに語りかけておられるのです。

私たちが生きる現実は甘くありません。厳しいのです。いろいろな困難に出遭う。もうどうにもならない、手に負えない、やっていられない、そういう状況に置かれる。現実の厳しさが自分を打ちのめす。聖書の言葉なんか聞いていられない、そんなもの信じられない、そう思うような出来事がたくさん起こってくる。もう何がどうなっているのか訳が分からず、どうすればいいのかわからない、ということが起こってくる。

しかし、まさにそんな状況にあるときに、復活の主は弟子たちに近づいてきて一緒に歩き始められたのです。そして、彼らに聖書をもって語りかけられたのです。その言葉を聞いて彼らの心は燃えたのです。そこで彼らはまたエルサレムへと向かいます。失望して逃げ出してきたエルサレムへ、主イエスが十字架につけられたその場所へ帰って行くのです。敗北と思っていた主イエスの十字架は実は勝利だった、落胆ではなく希望のしるしだった、そのことを知って弟子たちは戻ってきたのです。戻ってきて、一度は失望したその場所から、今度は新たな希望を持って歩み始めることができたのです。ここに復活の主に出会った人の姿があります。復活の主に目が開かれた人の姿があります。目には見えなくても復活の主が共にいてくださることを知っている人の姿があるのです。

今日は日曜日、主が復活された曜日、今日も私たちはイースター、主イエス・キリストの復活を祝うのです。イエスは復活された!実に復活された!キリスト復活!実に復活!復活の主は今も生きて私たちと歩みを共にしてくださっています。目には見えなくても、主イエスの言葉が私たちの心の中にあるならば、そこで私たちも主イエスと出会っているのです。私たちは主イエスご自身の言葉によって、聖書の言葉によって主イエスに出会います。そして主イエスの言葉は私たちの心をも熱くします。その言葉は生きる力を、平安、安心を与えます。私たちの心を、また私たちの全てを支える力が主イエスの言葉にはあります。主イエスご自身にその力があるからです。私たちはその言葉を通して復活の主イエスと今日も出会うことができます。私たちにはもうすでにその言葉が私たちの手元にまで届けられています。この聖書の中にそれが詰まっています。私たちを燃やし生かし力づける言葉がもう私たちの手の中にあります。――復活の主イエスとの出会い、それがイースターの喜びであり恵みです。

もう一度、最後に申します。私たちが心燃やさねばと気負いつつ主の言葉を聞くのではありません。心燃えないむなしさを感じる中にありながら、その心を主のみ言葉にゆだね、明け渡していくところで、心燃やされていくのです。私たちの心を燃やすことのおできになる主は今確かに生きておられるからです。主は今生きておられる。主の御言葉に心燃やされましょう。

どうか望みの神が、信仰から来るあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン

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