竹の塚ルーテル教会

Takenotsuka Lutheran Church


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主の顕現日礼拝説教 2013年1月6日

「希望の星」

(マタイ福音書2章1~12節より)

江本真理牧師

+私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。

皆さま、明けましておめでとうございます。新しい年を迎えて一日の新年礼拝でお会いした方もおられますけれども、今日はじめてお会いする方もおられますので、改めて申し上げます。今年もどうぞよろしくお願いいたします。

 

本日は教会の暦でいうと顕現主日と呼ばれる日曜日です。与えられている福音書の箇所は、よく知られている東方から来た占星術の学者たちの記事でありますが、今日は、このテキストが示すように、いわゆる3人の学者たちによって代表されるような異邦人の世界に対する、キリストの顕現、メシア(救い主)の姿が公にあらわされたことを覚える主日です。この「占星術の学者たち」というのは、口語訳聖書では「博士たち」となっていますが、これはギリシャ語でマギと言います。マギとは元来ペルシャの祭司階級に属する人たちで、哲学、薬学、自然科学にも秀でていて、占いや夢を解くというようなこともやっていたようです。したがって、旧約聖書におけるメシア預言についての知識も恐らく持っていたのでしょう。また、このマギについては教会の中でさまざまな伝説が生まれました。東方教会の伝説では、マギの数は12人とされているそうです。しかし西方教会では、彼らが、黄金、乳香、没薬という3つの贈り物をささげたとあるので3人とされるのが普通です。私たちも普通3人と思っていますが、実は聖書にはその数は記されていません。また、中世になると3人のマギは3人の王とされました。さらにこの3人には、カスパル、メルキオール、バルタザールという名前さえ与えられ、カスパルはひげのない青年であり、メルキオールはひげの生えた老人、バルタザールは黒人であるとされるのです。これは、この3人が当時知られていた世界の三大陸、ヨーロッパ、アジア、アフリカを代表するとして、一人は黒人として描かれるようになったようです。このように、この箇所は教会の中でさまざまに解釈され、また人々の想像力をかきたててきた箇所となっていますが、しかしこれらの伝説の中心にあるのは、異邦人の世界、ひいては世界中に救い主イエス・キリストの誕生が明らかにされたということです。幼子イエスの誕生は、全世界が待ち望んでいたメシアの到来だったのであり、それが人々の期待であったことが、これらの伝説を生んできたといえるのです。

 

さて伝説の話はこれぐらいにして、テキストそのものに目を向けたいと思います。マタイは、主イエスの誕生の状況そのものを詳細には語っていません。ただ「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった」と記しているだけです。むしろここでの中心は、幼子イエスの誕生に際して、この誕生を祝い礼拝した最初の人々について書かれており、それは東方から来た占星術の学者たちであったというのです。「私たちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」(2節)とありますが、この「拝む」というのは「礼拝する」という意味です。つまり、この学者たちが東の方からエルサレムにやってきたのは、幼子イエスを礼拝するためでありました。そして、少なくともこのマタイの記事によれば、イエスを王として礼拝したのは、占星術の学者たちだけでありました。ユダヤ人たちは誰一人彼らと歩みを共にすることがなかったのです。

 

何よりも王ヘロデはユダヤ人の王が生まれたと聞いて「不安を抱いた」(3節)とあります。彼は自分こそユダヤ人の王であると自認していました。ですからユダヤ人の王は自分の王宮で生まれるはずだと思っていたわけです。それなのに自分の知らない間に、どこかで「ユダヤ人の王」が生まれているとはどういうことか。このヘロデという人は常に不安を感じ、自分の王位を守るために自分の妻と3人の息子でさえも疑って殺してしまったほどの人物でありました。したがって彼の心の中には恐れと同時に、その王として生まれたメシアをひそかに殺してしまわなければならないという考えが浮かんだはずです。エルサレムの人々までも不安を抱いたとありますが、恐らくこれは、ヘロデ王がユダヤ人の王として生まれた幼子を抹殺しようとして、どんな暴挙に出るかと心配になったのではないでしょうか。自分たちまでそのとばっちりを受けなければよいがと不安になったのです。ともかく、ヘロデ王は早速、ユダヤ人の宗教的な指導者であった祭司長や律法学者たちを集めて、メシア(キリスト)はどこに生まれることになっているのかと質問します。すると彼らは、即座に預言者ミカの言葉を引用して、ベツレヘムであると答えるのです。ヘロデは自分の殺意が知られないように、ひそかに占星術の学者たちを呼び寄せ、星の現れた時期を確かめ、それから計算して幼子であるメシアの年齢を割り出そうとしました。さらに「私も行って拝みたいから、詳しく調べて報告してくれ」と偽って、ベツレヘムの場所まで教えて彼らを送り出すのです。

 

ここで不思議なのは、祭司長や律法学者たちは、どうして東方の学者たちと一緒にベツレヘムに行こうとしなかったのかということです。彼らは、メシアがどこで生まれるかということは他人に教えることができるほどよく知っていました。しかしそれ以上の関心を示さなかったのです。エルサレムからベツレヘムまではわずか八キロしかありません。はるばる何千キロもの遠いところから、危険を犯し、異邦人である学者たちがメシアを求めてやってきたのとは実に対照的です。彼らはメシアに関しては学者たちよりもはるかによく知っていたはずなのに、目と鼻の先にあるベツレヘムに行こうともしなかったのです。どうしてでしょうか。彼らにはメシアを求める心がなかった。あるいは無関心を決め込んでいたのかもしれません。彼らは、神殿の儀式を守ることや、律法の研究に心を奪われ、メシアが現れるという預言が成就したことを知りながら、無視してしまったのです。自分自身のことにばかり気を取られていて、いつのまにか大切なことを見失ってしまっている。本来目を向けなければいけないことから目をそらしてしまっている。これはとても悲しいことです。

 

メシアを真っ先に信じなければならないユダヤ人が信じないで、神の救いの計画から遠いと思われていた異邦人が信じたというのは、一種の皮肉であるかもしれません。この福音書を記したマタイという人はユダヤ人キリスト者であったといわれますが、そうだとすれば、マタイは身内に対して語っていることになります。恐らく当時のユダヤ人が、自分たちの心のかたくなさに気づき、無関心の態度を改めるようにと願って、ことさらにこの記事を記したのだと思います。

 

一方メシアを心から求めていた占星術の学者たち、彼らが出かけると、その東方で見た星が先だって進み、ついに幼子のいる場所の上に止まりました。「学者たちはその星を見て喜びにあふれた」とあります。これは原文を見てみると、「この上もなく大きな喜びを大いに喜んだ」と表現されているように、とても大きな喜びに満ちあふれたことが伺えるのです。彼らは自分たちの国を出発してからベツレヘムに着くまで、山あり谷ありの危険な長旅であったでしょう。時には、本当にメシアに会えるのだろうかとか、あるいは、あの星の徴は確かにメシアの誕生の徴なのだろうかといった疑いが、彼らの心をよぎったかもしれません。しかし彼らはそれらの疑いを振り払い、耐え忍びつつ旅を続けたのです。そして、その長い苦労の結果味わう喜びでした。

 

こうして学者たちは母マリアと共におられた幼子に出会うのです。そして彼らはひれ伏して拝みました。礼拝したのです。学者たちの信仰が本物であったことは、この幼子イエスを礼拝したということによって明らかにされています。もし彼らが幼子イエスに出会っても、それがメシアであるという信仰がなかったら拝みはしなかったでしょう。拝む、礼拝するというのは、それが信仰の対象であることを示しています。信仰がなくては本当の意味での礼拝はありえないし、礼拝なしの信仰というのもありえないのです。さらに彼らは、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげたとあります。学者たちはキリストを拝んだだけでなく、彼らの最も大切なものをささげたのです。これは、自分を主にゆだね、仕えていく姿勢ではないでしょうか。

 

この記事はイエス・キリストに対する異なった三つの態度があることを教えています。第一はヘロデです。キリストに反感を抱き、何とかして抹殺しようという態度です。第二は祭司長や律法学者たちです。知識としては知っていても、キリストに無関心な冷たい態度です。第三は学者たちのように、キリストを求め、信じ、礼拝する態度です。そして私たちに求められているのは、当然三番目の態度です。しかし私たちの信仰生活は常にヘロデや祭司長、律法学者たちのような態度に陥る危険性を持っているのです。そのような危険を免れるために、ちょうど学者たちが星に導かれてイエス・キリストのもとへと旅を続けることができたように、私たちにも、主イエス・キリストのもとに導いてくれる星が必要です。では私たちの信仰生活を導いてくれる、私たちにとっての星とは何でしょうか。それは聖書のみ言葉です。現在の私たちをキリストに導き、出会わせてくれるのは聖書のみ言葉、神さまの言葉なのです。詩編の詩人はこう歌いました。『あなたのみ言葉は、わたしの道の光、私の歩みを照らす灯』。

 

私たちの歩みを照らす光、それは聖書のみ言葉です。私たちはキリストへと導く光に照らされているのです。その光に不安を抱いたり、無関心を装うのではなく、その光に導かれてキリストのもとへと向かっていきたいものです。なぜなら、そこにこそ大いなる喜びがあるからです。

 

そして、12節に彼らは「別の道を通って自分たちの国へ帰って行った」とあるように、主イエスを「ひれ伏して拝む」人々が、そこから「別の道を通って…帰って行った」と、つまり、彼らは喜びに満ちて、自由に確信に満ちて、それまでとは違った「道を通って」行く、それまでとは違う生き方へと新たに踏み出していくのです。

 

そのような導きを与える光、神のみ言葉! この光なくして私たちは歩んでいくことが非常に困難な時代に生きています。だからこそこの光を見失ってはいけません。光は輝いています。その光に目を向けましょう。そしてその光に導かれてキリストに出会い、キリストに仕え、礼拝していく、そのような信仰生活をこの一年もともに歩んでいきましょう。「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く」(イザヤ60章1)。

 

祈りましょう。主なる神さま、この礼拝のときを感謝いたします。あなたは私たちを導く光を示してくださいました。私たちはその光に従っていきたいと思います。私たちが疑いや迷いに陥るときにも、ただ主に信頼して、忍耐強く従い、大いなる喜びにあずかることができますように、主よ、助けてください。

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待降節第一主日礼拝説教 2012年12月2日

「恵みの約束を果たすために」

(ルカ福音書19章28~40節)

江本真理牧師

+私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

今日からアドヴェントに入りました。今朝は、教会学校の子どもたちによるクリスマスツリーの飾り付けが行われ、聖壇の上のアドヴェントリースの蝋燭にも一本明かりが灯されています。教会では、クリスマスの前の四週間を「アドヴェント」、日本語では「待降節」と呼んでいます。これは、主の降臨を待ち望む時、主イエスがこの世に降りて来られ、私たちの間に臨在してくださることを待ち望む時です。

主の降臨ということには二つの意味があると言えます。一つは、救い主イエス・キリストがこの世にお生まれになったこと、この世に来てくださったクリスマスの出来事です。そしてもう一つは、その主イエス・キリストが再び来てくださるという、主の再臨を待ち望むことでもあります。かつて主イエスがこの世に来られたクリスマスの出来事を思い起こしつつ、再び主イエスの来られることを私たちは待ち望むのです。

今朝の第一日課では、「見よ、わたしが、イスラエルの家とユダの家に恵みの約束を果たす日が来る」(エレミヤ33章14)と言われています。主が私たちのために恵みの約束を果たしてくださる日が来る。主が約束されたことですから、確かにそれは実現します。この確かさに希望をおいて、私たちのために成し遂げられる神の恵みと憐れみに満ちた救いの出来事の到来を待ち望む。それがアドヴェントです。

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