竹の塚ルーテル教会

Takenotsuka Lutheran Church


復活祭(イースター)説教 2012年4月8日

「復活のキリストと共に」

(マルコ福音書16章1~8節より)

江本真理牧師

+私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。

イースターおめでとうございます。このイースターの朝に私たちが聞くべきメッセージは、「あの方は復活なさって、ここにはおられない」(6節)という決定的な知らせです。四つの福音書が一致して記録していることは、主イエスを納めた墓に主イエスの体は見当たらず、墓は空であったという事実です。

この事実に対して、マタイ福音書の記すところによれば、当時の祭司長や長老たちは墓の番兵たちを多額の金で買収し、イエスの死体は「弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った」と言わせたとあります。そして、「この話は、今日に至るまでユダヤ人の間に広まっている」と記されています(マタイ28章11~15)。

主イエスが復活されたその日以後、「あの方は復活なさって、ここにはおられない」というよき知らせと、イエスの死体は弟子たちが夜中に来て盗んで行ったのであって、イエスは復活したのではない、という偽りのうわさとが告げられていきました。しかし、この「イエスの死体は弟子たちが夜中に来て盗んだ」という偽りのうわさには歴史を動かすことはできませんでした。逆にこの2000年間、世界の各地に誕生していったキリスト教会の存在は、主イエスを葬った墓は空っぽで、主イエスの復活が事実であったということを実証しているのです。

この二千年間、教会が、キリスト者が信じ、そこに生き、宣べ伝え続けてきた主イエス・キリストの復活という出来事。パウロはコリントの信徒への手紙1 15章の中でこのように言っています。「キリストが復活しなかったのなら、私たちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です」(14節)。「キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります」(17節)。(キリストが復活しなかったのなら)「この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です」(19節)。「しかし、実際、キリストは死者の中から復活」されたのだとパウロは力強く語ります。だからこそ私たちはこの復活されたキリストを信じる信仰に生きるのであるし、その信仰の歩みは決してむなしいものではなく、むしろただ復活のキリストにのみ望みをかけ、この復活のキリストを宣教していく、宣べ伝えていくのだといいます。

このキリストの復活という、私たちの信仰の原点、信仰生活の礎となる出来事を、私たちはここでいま一度しっかりと聞いて、受け止めたいと思います。

私たちのこの世の営み、それはある意味、墓に向かって歩んでいく営みだと言えます。私たちはこの世に生を受けた瞬間から、実は墓に向かって、つまり死に向かって歩み始めています。私たちのこの世の歩みは例外なく、この墓、つまり死に向かう歩みなのです。しかし、このキリストの復活という出来事は、私たちの人生はそのようにただ墓へと向かうだけのものなのか、否、そうではなく、その墓を突き破り、死を越えて前に進むことができるものだということを告げているのです。

安息日が明けた週の初めの日の朝早く、主イエスのご遺体に葬りのための油を塗るために重い足取りで墓へと向かっていたマグダラのマリアたち(婦人たち)には、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるだろうか」という気がかりがありました。墓の入り口は大きな石でふさがれるという形になっており、これは一旦ふさがれると、少々の人の力では開けることはできないものでした。まして3人の婦人でどうなるものではありません。だれがあの墓の入り口から石を転がしてくれるだろうか・・・

しかし、足元を見ながら暗い思いで歩いていた彼女たちが、墓の近くに来て目を上げて見ると、非常に大きかったその石は既にわきへ転がしてありました。彼女たちが恐る恐る墓の中に入ってみると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えました。そしてひどく驚く彼女たちにその若者は、「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない」と告げたというのです。

この経過の中での彼女たちの思いを考えてみますと、最初とりあえず主イエスの墓へと向かった彼女たちですが、その彼女たちの行く手には自分たちではどうにもならない大きな墓石が立ちはだかっているはずでした。仮に誰かが手伝ってその墓石を転がしてくれたとして、主イエスの体に香油を塗ってさしあげることができたとしても、もう既に死んでしまった人は帰ってこないはずでした。彼女たちの行く手には、自分たちにはどうにもならない、どうにもできない、そして二度と取り返しのつかない事柄が立ちはだかっていたのです。しかしそのような全く八方ふさがりとも言える状況の中で、墓石は転がされ、さらに空っぽの墓の中で、「あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない」という驚くべき知らせを聞いたのです。これはにわかには信じられない事柄です。実際このときの彼女たちの様子について、聖書は「婦人たちは、墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」と記しています。これは実に生き生きとした描写です。彼女たちにしてみれば、もともと墓の入口をふさぐ大きな石が転がされている、それだけでも信じがたい驚くべき出来事でした。しかも、墓の中には白い衣を着た若者がいて、死んだ主イエスは復活されてここにはいないと告げられる、こういうことを聞かされて、驚きと恐れを抱かない人はいないでしょう。

しかし、ここにこそ、聖書が語ってやまない復活のメッセージがあることを、この朝、私たちはしっかりと聞き取らなければなりません。「あの方は復活なさって、ここにはおられない」。このメッセージは、死の壁を打ち破り、死の彼方へと進まれたキリストを私たちに告げています。それは、キリストが死をもって死を滅ぼし、復活という新しい命、永遠の命への道を開いてくださったことを意味します。

先ほど、このキリストの復活という出来事は、私たちの人生というものがただ墓へと向かうだけのものなのではなく、その墓を突き破り、死を越えて前に進むことができるものだということを告げていると申し上げました。私たちの人生には、この世における最期、墓に至るまでにも、まるで墓の中へと押し込められるようなどうにもならない状況がふりかかってきます。もうどうにもならない、もうこれ以上先へは進めない、そういう絶望の中へと落とされていくことがあるのです。しかし聖書は告げるのです。あなたが今置かれている状況がすべてではない。あなたのその苦しみは苦しみのままで終わらない。あなたのその悲しみは悲しみのままで終わらない。あなたのその絶望は絶望のままで終わらない。その苦しむあなたと共に、その悲しむあなたと共に、その絶望するあなたと共にキリストがいてくださる。そしてそのあなたの苦しみ、悲しみ、絶望の中に共にいてくださるキリストは、復活のキリストであり、既にあなたの苦しみの先にある慰めを、悲しみの先にある喜びを、絶望の先にある希望を獲得してくださっている方である。墓を打ち破り、死を越えて、絶望の彼方へとあなたに先立って行かれる方である。だからこそ、パウロが語るように、私たちはこの復活されたキリストを信じる信仰に生きるのであるし、その信仰の歩みは決してむなしいものではなく、むしろただ復活のキリストにのみ望みをかけ、この復活のキリストを宣べ伝えていく、その歩みに生きる者でありたいと願います。

キリスト者の生涯は、復活されたキリストを私の主と信じて歩むこと、どこまでも、どこまでも、この復活されたキリストと共に歩み続けることです。このあと、一人の方がイエス・キリストを主と告白して、洗礼にあずかり、キリストの体である教会に結ばれます。それは死をも越えて先立ち行かれる復活のキリストと共に、墓に向かう人生から、墓を突き破ってその先にある復活の希望、永遠の命に生きる歩みであるのです。私たちは共々に、与えられた信仰を大切にして、生涯かけて十字架の主、復活の主に共に従ってまいりましょう。

どうか望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みに溢れさせてくださるように。アーメン

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