竹の塚ルーテル教会

Takenotsuka Lutheran Church


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復活祭(イースター)説教 2011年4月24日

「喜びに生きる者に!」

(マタイによる福音書28章1~10節)

江本真理牧師

+私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。

イースターおめでとうございます。今朝、私たちは、主イエス・キリストの甦り、ご復活を覚えてイースターの礼拝を守るためにこの場に集められています。またこの礼拝の前には、朝の新しい光を全身に受けながら、その輝きのもとに、今年も大境公園にて子どもたちと共にイースター礼拝を守ることもできました。感謝したいと思います。

一昨日、金曜日の晩に、私たちは主の十字架の出来事を思い起こし、私たちのために負ってくださった主の御苦しみを覚える受苦日の礼拝を守りました。その礼拝において、私たちは、キリストの十字架は暗闇の中に立っていたということを聞きました。私たちだれもが抱えている深い暗闇、悩み・苦しみ・悲しみ・痛み・ねたみ・ひがみ・憎しみ・・・あるいは恐れや不安といった私たちの抱える闇、その闇の中に立つ十字架。キリストの死。しかし、今朝私たちが聞くのは、キリストの復活ということであります。そしてそれは、死が乗り越えられるということ、闇が乗り越えられるということ、つまり、死がもはや死でなくなること、暗闇がもはや暗闇でなくなるということです。

もう少し私たちの状況に照らして正確に言うならば、「死」という現実は依然として私たちの間にあるわけですけれども、しかしそれは普通の人が考えているような、すべてのものの終わりを意味する「死」ではなくなるということ。それは、どうせ何をしても、どんな功績を残して、どんなに立派な地位や名誉を手に入れても、たとえどんなにお金持ちになったとしても、死んでしまったら何にもならないというような、人生を生きることの空しさから解放されて(または死への不安や恐れといったものからも自由にされて)、今このときを、今与えられているこの命を精いっぱい輝かせて、この世における終わりのときまで今を生きる、今を生き続けることができる、そのような喜びを与えられているということです。

あるいは、主の復活を知らされた後も、依然として私たちは自分のうちに暗闇を抱え続けています。暗闇を抱える存在として生き続けていきます。しかしそこで、暗闇が全くの暗闇ではなくなるというということは、たとえ暗闇を抱えていても、それは私たちを全く絶望的な状況へと、全く深い暗闇のそこへと陥れるものではなくなる、むしろ暗闇を抱える者であるからこそ本当の光とは何であるのかがわかる(まことの光が見える)者として、その光、明日への希望に向かって、今このときを精いっぱい生きることができる、闇を抱えて、その暗闇を担って、なお今このときを精いっぱい生き抜くことができる、そういうことです。

今を生きる、今このときを精いっぱい生き抜くことができる、それは私たちにとってこの上なく大きな喜びと言えるものではないでしょうか。今朝私たちが知らされております主イエス・キリストの復活の出来事は、このような喜びを私たちに告げているのです。

さて、ここで改めて聖書に目を向けてみましょう。先ほど私たちはマタイ福音書に記されております主の復活の記事をご一緒に読みました。それによりますと、「安息日が終わって、週の初めの日の明け方〔つまり日曜日の明け方〕に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った」(一節)とあります。そこで彼女たちは主の天使に出会い、思いがけず、主イエスは復活なさったということを知らされます。そして確かに墓の中に主のご遺体はなく、墓が空であるのを確認した彼女たち、主の復活を知った彼女たちはどうしたでしょうか。

聖書はその様子を「婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り」(八節)と記しています。「恐れながらも大いに喜び」。彼女たちは大いに喜んでいた。しかしそれは、ただ嬉しいとか、ただよかった、万事解決とかということではなくて、それは「恐れながらも」ということであった。「恐れ」と「喜び」という一見相矛盾するように思える二つの思い。しかしそのような一見相矛盾する二つの思いのうちにしか捉えることができない、受け入れることができない、復活とは、そういう出来事であることを聖書は告げています。

ここで言われている「恐れ」、これは文字通り、恐れを意味しています。またこの言葉には、危惧・懸念・不安・心配の種といった意味合いが込められています。ですから「恐れながらも」とは、主の復活を知らされた彼女たちには恐れがあった。今主の復活を知ったのだけれども、依然、彼女たちは危惧していた。懸念をいだいていた。不安や心配を抱えていた。そういう意味ではまた、疑いや戸惑いを抱えていた・・・。これらは、先ほど申し上げました、いわゆる私たち人間の抱える暗闇、闇であると言えます。主の復活を知らされた彼女たち、彼女たちはその内に依然暗闇を抱えている。しかし、にもかかわらず大いに喜んでいる。暗闇を抱えつつ大いに喜んでいる。そして、これが主の復活を知る者の姿、あり様なのだと聖書は私たちに告げているのです。

さらに、この婦人たちが墓を立ち去って弟子たちのもとへ向かっていきますと、途中で「イエスが行く手に立っていた」(9節)と記されています。彼女たちは主イエス・キリストにばったりと出会った。すると、主イエスは彼女たちに向かって「おはよう」と言われたとあります。

復活された主が一番最初に言われた言葉が「おはよう」であったというのは、何だかどうもしっくりこない、そんなふうに感じるのは私だけでしょうか。何だかあまりに日常的すぎるのではないかと。前の口語訳聖書では「平安あれ」という言葉になっていました。こちらの方がまだ頷ける。しかし、これはあくまで私がそう感じるということでありまして、どちらかが間違っているということではありません。実はこれは挨拶の言葉でありまして、ごきげんようとか、やあ、こんにちは、さようならなどいろいろな場面での挨拶として用いられる、現代でも使われている言葉だそうです。ですから、「おはよう」とも「平安あれ」とも訳すことができる。どちらも正しいのです。

ただしその本来の言葉はと言いますと、実は「喜びなさい」という言葉です(英訳聖書では「Rejoice!(喜びなさい)」と記されているものがあります)。「喜びなさい」。これが、ここで主イエスがおっしゃっている言葉本来の意味です。主は「喜びなさい」とおっしゃっている。つまり、主の復活を知らされて、「恐れながらも大いに喜び」ながら墓から帰ってまいります人たちに向かって、主は「喜びなさい」と、こうおっしゃったということです。

ここで、復活された主イエス、「復活であり、命である」キリストご自身が、やはり「喜びなさい」とおっしゃっている。それはどういうことなのでしょうか。私たちの人生の歩みにとって、本当の喜びのないところには、命はないのです。たとえ私たちの肉体は生きていても、喜びがなければ、それは生ける屍のような惨めなものになってしまうのです。ですから、そういう意味から言いますならば、ここで主イエスが言われた「喜びなさい」とは、「本当に生きなさい」という意味だと、こう言っていいと思います。復活された主イエス・キリストは、私たちに「喜びなさい」と告げ、また、「本当に生きなさい」と、喜びに生きる者になりなさいと、そうおっしゃっておられるのです。

星野富弘さんの詩画集にこういう詩がありますね。「辛いという字がある。もう少しで幸せになれそうな気がする」。ご存知の方も多くいらっしゃるでしょう。「辛い」という漢字と「幸せ」という漢字。この二つの漢字は非常によく似ていて、「辛い」という字に横棒を一本加えますと「幸せ」という字になります。確かにこの二つの言葉が表す状況はまるで正反対のようです。しかし、たとえ今辛さの中にあるのだとしても、「もう少しで幸せになれそうな気がする」。この気づきが与えられたことによって、星野さんは希望を持つことができたのだと思います。「もう少しで幸せになれそうな気がする」、この希望があればこそ、たとえ自分が今辛さの中にあるのだとしても、なおその辛さを抱えつつ今このときを精いっぱい生きていくことができる。そして実は、「もう少しで幸せになれそう」との気づきによって、今はまだ幸せでなく、依然辛いのだけれども、なお今このときを頑張ってみることができる、精いっぱい生きてみることができるということこそが、実は何より大きな喜びなのだということを、この短い詩は端的に語っている、そんなふうにわたしは感じます。

今朝私たちに告げられております主イエス・キリストの復活の出来事は、このような喜びを私たちに告げています。「辛いという字がある。もう少しで幸せになれそうな気がする」。今なお辛さの中にありながら、しかしその辛さは辛さのままに終わらない!主の復活という出来事はそのことを力強く私たちに証ししています。だから今このときを生きよう、「辛さ」を抱えつつも精いっぱい生きよう、恐れながらも大いに喜ぼう、闇を抱えつつもなおその闇を担って今を生きることができる、その喜びに生きよう。主の復活が私たち一人一人にもたらしてくださった「新しい命に生きる」ということ、それは、このような喜びに生きることができるということなのです。

最後にもう一度申し上げます。今朝、この日、復活された主イエス、「復活であり、命である」キリストご自身が私たちに告げておられます。「喜びなさい」。「喜びに生きなさい!」と。

どうか望みの神が、信仰から来るあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みに溢れさせてくださるように。アーメン。

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